このところいつもの公園で、妻を乗せた車椅子を押す夫、夫を乗せた車椅子を押す妻と見受けられる人たちをよく見かける。ほんの少し前まで、夫婦そろって元気に、この公園の散歩を楽しんでいたのではないだろうか。
ずいぶん前のことであるが、長門裕之さんと南田洋子さん夫婦の生活がテレビで放映されたことがあった。
当時南田洋子さんはアルツハイマー病を発症していて、24時間の生活をすべて長門裕之さんが一人で面倒を看ていた。
テレビはその痛々しい姿を映していた。長門さんは妻を施設に入れることはしなかったようだが、自宅での介護の大変さが伝わるものであった。
南田さんはドラマでも実生活でもしっかり者の印象があった。
「人生とは……」、と思わず考えた。
長門さんの弟の津川雅彦さんの妻であった朝丘雪路さんもアルツハイマー病であったらしい。
父親は美人画で名を成した伊東深水であり、芸能界にデビューする前の10代のころだと思うが、父と一緒にテレビ番組に出演したことをどういうわけかよく覚えている。
朝丘さんもはっきりとした個性を持っている人だった。
認知症やアルツハイマー病は、誰が発症してもおかしなことではないと知ると、恐ろしくなる。
「人生は芝居のごとし」
人生はなん幕なん場の芝居なのであろうか。
人生芝居は喜劇なのか悲劇なのか。終幕は悲劇であることが多い。終幕の悲劇を迎えるためにそれまでの幕があるようだ。
終幕の悲劇を迎えるための音楽がある。チャイコフスキーの悲愴交響曲。
「Simphonie Pathétique」を悲愴交響曲と訳してよかったのかどうか私には判らないが、悲劇的でも悲壮でもなく悲愴である。
悲愴という言葉はさほど一般的なものではないから、より悲愴であるということは言える。
それはともかく、ブラームスが何と言おうと素晴らしい交響曲である。これほどの悲しみを描いた音楽はこの世にない。
あれほど美しく華やかな音楽を作った人の最後の作品は、全4楽章の悲劇であった。
前の3章は人生の高揚を歌うようでありながら、終幕は命の終焉を告げるように崩れ落ちて、闇のようなピアニッシモに向かう。
コントラバスのピチカートは心臓の最後の鼓動を伝えるようだ。
指揮者が指揮棒をおろしても拍手をしてはいけない。静かな悲しみに身を置かなければいけない。だから私は演奏会ではこの曲を聴かない。(了)
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