生きることを楽しむ、ということについては誰しも同じではない。人生を楽しむことのできる人もいれば、それができない人もいる。
1月の半ばに我が家の風呂場を改装した。わずかだが時代の先端を行くバスルームとなった。
妻は、朝起きてあのお風呂に入ることが何よりの楽しみ、と言う。そうかな、前とそんなに変わらないがな、と私は思う。妻は人生を楽しむことができる。私には不思議なことである。
私と家内は小学校の同級生である。1年生から3年生まで同じクラスだった。
髪の毛をおさげに編んで、いつ見ても周りのことには関心がない、という表情をした愛嬌のない子であったが、他の子にはない、何か雰囲気を持った子であった。
学校の成績は良かったらしいから、明るく元気なだけが取り柄だった私には、自分とは違うものを感じていたのかもしれない。誰が言うでもなく、先生が褒めるでもなく、いつも当然のように学級委員のトップに選出されていた。
私は4年生の時にその小学校を転校したが、二十歳のころ、その3年生の時のクラス会があり、そこで10年ぶりに見かけることになった。
名前を間違って覚えていたようで、正しい名前を本人から聞いてもその名前と顔がどうしても一致しなかった。
小学校のころとは見違えるように、何があったのかは知らないが、よく笑い、感じのいい愛嬌のある女性になっていた。それとは逆に私は不愛想な顔になっていたらしい。
女房を褒めることになってしまったが、私の遺し書きとしてはいいことかもしれない。しかしそのことがこの稿の目的ではない。
人生を楽しむということについて、私には才能がないが女房には天性の才能がある。どうして人によって人生を楽しむことに違いがあるのか、というのがこの稿の目的であった。
人生は一輪の花や、小鉢の盛り付けに楽しみを見出せなければ、豊かな人生を送れないらしい。そんなものに楽しみを見出さなくても、人生には他にいくらでも楽しみがある、という考えを持っていると、いつまでたっても楽しいことに巡り合うことができないらしい。
一輪の花や小鉢に楽しみを見出せるようでなければ、何を見ても何をやっても結局何も楽しさを感じることができない人生になってしまうようなのだ。
人生の楽しみとはどうやらそういうことかなあ、と長年一緒に生活をしてきた女房を見ているとそう思うようになった。
しかしそれではなんかつまらないなと思うし、人生の楽しみとはもっと大きなことなのではないかなとも思うが、さりとて何か思い当たる楽しみはない。
つまらない人生を送ってきましたね、と言われればその通りです、と言うしかない。自分で楽しみを見出せず、楽しいと思ってもすぐに飽きてしまうのだからどうしようもない。
世の中の高齢者はどうしているのだろうかと思う。健康食品のCMで、80歳を過ぎてもラグビーでグランドを走り回っている人がいる。仲間に囲まれて楽しそうである。充実しているのだろうな、と思う。
若い頃人に言われたり、自分で思っていた自分とは違っていたような気がする。
社交的だから商売がうまいだろうとか、どこに行っても物怖じしないから何をやっても成功する、などと言われたものだがそんなことはなかった。
私はどうも人付き合いが苦手で、結構憶病である。なんども転職をした。自分で仕事をはじめても事務所を大きくするような気はなく、長く維持するような努力もしなかった。自分でも、自分はなんなのだろうかな考えることがある。思い当たるのはただ1点、面倒くさい、ということだけである。
何事も面倒くさいとして生きてきた。そのためかいろいろな人生の局面を経験した。女房子供の明日の食べ物にも困るような生活をしたこともあるし、人もうらやむような生活をしたこともある。
何事も面倒くさいという人生を送らなければ味わえない、スリルと変化に富んだ人生であった。
最初に就職した建築会社にずっと勤めていたらこんな素晴らしい人生を送ることはできなかったであろう。
こう見えても私は私なりに人生を楽しんだのである。これからもきっと楽しく暮らせると思っている。(了)
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