人生は天敵との戦いである

つぶやき

 「不倶戴天の敵とは、相手を生かしておけないほどの深い憎しみを抱いている敵のことを言う。不倶戴天は、倶(とも)に天を戴(いただ)かず。同じ空の下で共に生きることができないという意味である」と、言葉辞典にある。

 よく母から聞いた言葉である。創価学会員であったから、座談会から帰ってくると今まで口にしたことがない言葉を使うようになる。
 「獅子身中の虫」「継続は力なり」この「不倶戴天の敵」もそうである。他宗教を攻撃することで組織の団結を図ったものと思われる。
 
 創価学会員のことを書くつもりではなく、天敵についてである。
 天敵という言葉の語源は「不倶戴天の敵」だそうである。そう言われればそうかもしれないが、天敵は「不倶戴天の敵」とは違う意味で使われる。

 あまりいい話ではないが、「不倶戴天の敵」の元々の意味は、父の仇は必ず殺す、ということであったという。
  天敵には違う意味があると思うのは、天敵には敵わない、という使われ方があるからである。

 例えばネズミにとっての天敵は猫とされるが、ネズミがどんなに猫を憎んでも、猫に仕返しをすることはできない。ネズミも猫を生かしておかないことができればどれほどうれしいことか。つまり現代で言う天敵とは、憎いが殺せないという意味になっている。どうもきつい言葉が続いてしまう。
  
 人間にも天敵がある。「ウィリスとか細菌がそうである」、ということではなく、人間そのものが天敵になることである。同じ生き物が天敵になるというのは、自然界では人間以外ないようだ。

 人間の天敵とは自分に対する加害者のことである。それも意味もなく敵対したり無視したり、陰口をたたいたり、威張ったり、エラそうにするイヤな奴のことである。
 
 天敵のいない人もいるだろうが、天敵のいる人の方が多いはずである。世の中はイヤな奴だらけであるからである。
 
 天敵の存在は、早ければ幼稚園に通う頃から現れるが、顕著になるのは小学生の頃からである。不登校とは天敵に遭遇したことである。天敵からは逃げるしかない。。

 子供にとっての天敵は、同級生もそうだが先生も天敵になる。
 近所、学校、会社、趣味のサークル。そこら中天敵だらけである。
 
 天敵に遭遇したら逃げるに限るが、生活の糧と関係しているときは逃げるのが難しい。人生の不愉快な思い出はすべて天敵のせいである。

 引退とは天敵に遭わずに生活できるということである。天敵に遭ったとしても無視できる余裕が引退である。
 
 この歳になって昔の天敵に遭ってみたいと思う。遭って彼らの天敵になってみたい。もちろん彼らにとってなイヤ天敵になることである。つまり仕返しである。
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