人生とモラル

つぶやき

 ビッグモーターの社長が辞任を表明した。保険の不正請求も、車の損傷もまったく知らなかったと述べている。

 社長を辞めてしまったら不祥事の責任を果たせないと思うが、その辺のところはどう考えているのだろうか。

 オーナー社長であるからから辞めたところで何の損もない。とりあえず反省の意を示しておけばそのうち世間も忘れてしまう。そんなことを目論んでのことだろうか。

 問われるべきはこの会社の風土である、とよく言われる。
 その風土を作ったのはこの社長である。すべて不正はこの社長から始まったことである。

 社長としてのモラルについてどう考えているのか、と記者が質問しても痛くもかゆくもない。モラルとは大事なものだが、ろくでもない人間にはカエルの面に小便である。

 「物を作る会社にはモラルがあるが、物を売る会社にはモラルがない」
 今までそう思ってきたが、ジェネリック医薬品の不正などを見るとそんなことはないようだ。物を作る会社においても、すべてが利益優先ということになってしまった。

 「刑事責任が問われないからといって、人間としてのモラルにおける責任がないということではない」と新聞などは言うが、刑事責任が問われなければ人間としてのモラルの責任などどうでもいい、と政治家はみんな思っているようである。

 刑事責任においては政治生命を失うことがあるが、モラルで政治生命を失うことはない。

 日本では落とした物が戻ってくる、と外国人は驚く。日本はモラルのある社会ということになる。しかし戦後の社会はモラルを失ってしまったという指摘もある。
 落とした物が戻ってくることはモラルなのであろうか。

 戦後間もないころ、闇米を食べなかった裁判官が餓死したということがあった。
 職業上のモラルを果たすことが自分の死となった。
 闇米に関わった人間を裁く身で闇米を食べるわけにはいかない。不器用な人であったのかもしれないが、立派な人である。

 仕事を通じて知り合った人にモラルを感じたことはなかった。何をモラルというのかと言えばやはり責任感である。責任感を持って仕事をしている人がいない。

 責任感を持っている人と誤解すると、その人に裏切られることになる。人はいい人ぶって近づいてくるものである。

 モラルは職業によって作られる、と言っても間違いではない。
 やはりどういう人間なのか見定めなくてはいけない。それにはどんな職業に携わってきたかを知ることである。

 いま私は人生において初めての経験をしている。働かないで食べているということと、他人と関わることなく生きているということである。

 他人と関わることなく生きているということが、こんなにいいものとは思わなかった。(了)

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