「まだ甘口の酒が多いとお嘆きの貴兄に」、は清酒会社のCMであった。「やあっぱりオレは~」と歌う女性歌手の声がなかなか良かった。
「自分の人生はもっと幸せなはずだったのに」、と嘆く老人が多いらしい。
そのためか、≪「人生こんなはずじゃなかった」の嘆き≫、と題する本が出版されたという。老後を後悔する人と幸せになれる人の決定的な違いを明らかにした本、という解説がある。筆者は加藤諦三氏。
読んでみる気はない。目次を見ただけで充分である。新しいことを言っているとも思えない。
要は、過去の栄光を追うな、内面を充実させろ、無常を知れ、ということではないだろうか。ネットの紹介文を読んでみた。
「我が人生に悔いなしと言えるかどうかは、どれだけの社会的成功を手にしたかで決まるのではない。勝ち組人生を送ってきた人でも、いつまでも自分が「すごい人間だ」と思い込んでいたら裸の王様になって孤立し、不満と後悔のうちに死んでいくことになる」
老後に関する著作にはこのような記述を見かけることが多い。しかしこのような文章にはトリックがある。
「社会的成功を手にした人は我が人生に悔いなし」と言えるのである。
勝ち組人生を送ってきた人は、いつまでも自分が「すごい人間だ」とは思い込んでいない。謙虚な人が多い。
一律に、「不満と後悔のうちに死んでいくことになる」、とはいくら何でもひどい話である。
「歳をとったら内的成熟が必要である。地に散った桜を見てどう思うか。『桜は綺麗だな』と感じるのは、その人がやさしくなった証拠である。それが内的成熟である。心に余裕があったからそう感じたのである」
こういう話にも無理がある。地に散った桜は、ピンクの絨毯のよう綺麗に散りばめられていれば美しい。土にまみれてしまえば汚らしい。
内的成熟などと難しいことではない。土にまみれた桜の花びらを美しいと感じたとしたら、認知症が始まっているのかもしれない。そう考えるのが正常というものである。文章に誘導されてはいけない。
多分、「人生こんなはずじゃなかった」と嘆く人の多くはサラリーマンだった人ではないか。退職したらかつての部下は誰も寄り付かない。盆暮の届け物が一切なくなった。みんな頭を下げたのに今は誰も頭を下げる者がいない。
こんなところではないだろうか。会社の地位を社会的地位と混同してしまう。老人ホームなどでよくある話である。
自営で定年のない人に「人生こんなはずじゃなかった」と嘆く人はほとんどいないのではないかと思われる。
年寄りには社会的年寄りと肉体的年寄りがある。社会的年寄りは社会の制度によって年寄りとされる者である。本来年寄りは肉体的年寄りしかいないはずである。
私の人生は「こんなはずだった」。予定した通りの人生であった。
ただ75歳で、病気により実入りのいい仕事をやめることにしたのは実にもったいないことをした。全く予定外のことであった。
学歴もなく、出世欲もなく、頭もよくない者がそれなりの生き方ができたのは、レベルは低いが人生の選択肢を誤らなかったことである。
人生大海を知る必要はない。大海を知れば面倒なだけである。井の中にいてもいい人生を送れるのである。
「人生に悔いなし」であるが、ただ自営をやめたため無職となってしまった。
無職は老後の生き方を考えなければならない。人生から仕事がなくなり、老後だけになってしまったからである。
老後だけの生活には結構脅しが多い。認知症になる。孤独になる。鬱になる。
働いていればこんな脅しを受けることはなかったはずである。
「人生こんなハズじゃなかった」。病気だけはどうしようもないことである。(了)
人生こんなはずであった

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