私は自分のブログに読手を想定していないから文体に迷うことがある。文章は読み手があった方が書きやすい。言葉とは相手があってのことだからである。
くどい文章を書いているが、筋道の通ったくどい文章を書くことが頭の体操になる。
なんの意味もないことは分かっているが、なにより自分はどう考えるか、ということを大事にしている。
筋道の通った文章と思っても、一晩おいて読み直してみると支離滅裂であることがしょっちゅうである。
下手な文章は一晩寝かせても熟成しないが、熟成していないことに気がつくことが大事なことである。気がつかなければ判断力が低下したということである。
人を褒める文章は稚拙な文章でも相手に伝わるが、相手を注意する文章はどんなに精緻に書いても伝わらない。精緻に書けば書くほど相手の恨みを買う。
「人と長く友達でいるには長くつき合わないことである」と言う芸人がいる。
矛盾するような言い方を近頃よく聞くが、別に意表をついたものでも、目新しいものでもない。社会生活をしてきた人はみんなそう思っている。
昔から「つかず離れず」「広く浅く」と言われてきたことである。
「人と長く友達でいるには長くつき合わないことである」という文章は、文章として成立していない。長くつき合わない人は友達ではなく「知り合い」だからである。
こんな言葉が最近人の目を引く。何の意味もない。
人は人と「うまく」つき合うものである、ということになっている。
うまくつき合えばいいのだから人づきあいは簡単なことだが、「うまく」ということがなかなかうまくいかない。
なぜうまくいかないのか。鍵は友達の意味にあるのではないだろうか。
昔から理想の友達像というものが作られてきたような気がする。 何も語らず、互いにそばにいるだけで気持ちが通じ合う。そんな関係が友情だとされてきた。
そういう関係もあるだろうが、たまたま無頓着な人間が知り合ったということではないのだろうか。
「友達が欲しければ人のいいところだけを見よ」、ということになっている。
しかしそのような友達は本当の友達と言えるのか、という疑問があるからいつまでも友達ができない。
人間に無頓着な人の方が人づきあいが長くつづく。
人間関係を考えてしまっては友達はできないということである。(了)
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