24日の毎日新聞夕刊に、「天下の“人たらし”からの手紙」と題する記事が2面一面に掲載されていた。渡辺恒雄氏に対する追悼として、客員編集委員鈴木琢磨という人が書いたものである。
渡辺氏は新聞記者でありながら日本の戦後政治に大きく関わった人と言われている。
いろいろと評価が分かれる人であるが、私が関心を持つのは、どうしてたくさんの政治家たちと親交を結ぶことができて、一政治記者が政局や外交にも関与することができたのだろうか、という点である。
「人たらし」と鈴木氏が言うのは、渡辺氏に対する誉め言葉である。
90歳を過ぎても今だ鋭い風貌からは、人たらしであったということが想像もできないが、どこか茶目っ気のある人であったようだ。
「人たらし」という言葉はもともと存在していた言葉なのだろうかと考えたことがある。
「女たらし」という言葉はよく聞くが、人たらしは女たらしをアレンジした造語ではないかと思っていた。
人たらしという言葉は昔からあったようである。「他人を騙す人」という意味であることになっているから、本来は誉め言葉ではない。。
人たらしをなんとなくいい言葉にしたのは司馬遼太郎さんではないだろうか。「人たらし」は「人をたらし込む」ことの省略語のはずである。
たらし込むという言葉はいい言葉ではないが、たらし込むためには話術や行動に工夫が必要である。
司馬さんの「豊臣秀吉」では、人をたらし込むための秀吉の戦術が描かれている。そういう人たらしであったから秀吉は天下人になった、というのが司馬さんの「豊臣秀吉」であった。そういえば秀吉といえば雪の日の草履のエピソードから始まることになっている。
現代の世で「人たらし」といえば当然田中角である。
選挙資金に困っている議員に金を届けるとき、「おまえは絶対に『相手にこれをやるんだ』という態度を見せてはならん。『もらっていただく』という気持ちで、姿勢を低くして渡せ」と、秘書に指示したという。角栄さんらしい話である。
人生大事をなすには他人の力が必要である。大事をなす気が無ければ、あまり人との関係は必要がない。
人の力を借りるには、人たらしなどということが必要になるのだろう。
私は大事をなす気は全くないから、他人の力が必要なことはなかったし、やって来た仕事も内職のような小事であった。
人たらしをしない人生でよかったと思う。やはり人たらしという言葉も行動もよくない。
司馬さんの「人たらし」は、打算を美化したように受け止められている。しかしそんなつもりは司馬さんにはなかったのではないかと思う。
コメント