小澤征爾さんのことについて3、4日前にこのブログに書いたが、松本フェスティバルを報じる新聞の写真は衝撃であった。
舞台上でジョン・ウィリアムズと握手をする写真であるが、マスクをして車いすに座る小澤さんがなんとも痛々しい。これほどの体調であったのかと思う。
小澤さんは10数年前に食道がんを発症して大きな手術を受けたようだ。その後腰椎の手術もしたという。
近況を伝える写真はないかとネットを見たら、去年何年振りかで開催されたサイトウ・キネン・オケの演奏会で指揮する動画があった。
今回と全く同じ姿で車いすに座り、手だけを力なく動かして指揮する姿があった。あの溌溂としたオザワの面影はない。
小澤さんは88歳になる。小澤さんがブサンソンの指揮者コンクールで優勝したのは1959年24歳のときであった。
私はこの報を、確か新宿のビルだったと思うが、その電光掲示板で知った。大変なニュースであった。
あの当時国際的な音楽コンクールで日本人が優勝するということはなかったのではないか。中村紘子さんがショパンコンクールで4位に入賞したのは1965年のことである。
ギターとスクーターとともに貨物船でヨーロッパに一人で渡り、見事凱旋したことになる。
小澤さんはN響とのトラブル以後日本を離れてしまったから、演奏会やテレビなどで見かけることはなくなってしまった。
コンクール優勝後、N響の指揮者になる前のことだと思うが、よく覚えているのはベートーベンの第9の演奏会である。
確かチケットが即日完売で武道館での追加公演がされたはずである。小澤さんの第9は「揺れ動く」という印象があった。そのことを「モダンな演奏」と評した評論家がいた。
しかし桐朋学園で齋藤秀雄の弟子とはいえ若すぎるマエストロである。
当時そんなにレパートリーもなかっただろうし、指揮経験も豊富とは言えない。
音楽界もテレビ界も出版界も文化人も、オザワに対する期待が過剰ではなかったか。
N響とのトラブルはそんなことがきっかけだったのではないだろうか。
小澤さんは人に愛された人だと思う。ミンシュもカラヤンもバーンスタインも、小澤さんの才能を認めただけでなく援助を惜しまなかったようだ。
あの時代、カラヤンもバーンスタインも、小柄なアジアの青年音楽家に何を思ったのだろうか。
音楽の世界は極めて閉鎖的だと言われている。アジア人の指揮者などヨーロッパからすればあり得ないことではなかったか。
日本では西欧音楽の系譜からして難しいことであるが、指揮者は歌劇場において修行をし、歌劇場の指揮者になることがヨーロッパのスタンダードである。
コンサート指揮者である前にオペラ指揮者なのである。
何十年か前、ヨーロッパの歌劇場の引っ越し公演というべきものがあったが、オーケストラは日本のオケであった。
指揮者は外国人であるがリハーサルにおいて、「全く分かっていない」と憤慨して帰ってしまったというエピソードがある。
その指揮者には堪えがたいほどの違和感だったのであろう。あの当時オケの奏者にオペラを要求するのは無理というものである。
オペラの名曲を、例えば街なかで道路工事をするおっさんが口ずさむような日常がなければ、音楽が人々に根付いたことにはならない
小澤さんがオペラで苦労したという話はよく聞くことである。
小澤さんに続く指揮者はいないと思う。
日本人は世界に羽ばたくことがなくなってしまった。いろいろあっても日本が一番住みやすい、ということである。(了)
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