先日、昨年亡くなった妻の叔母の墓掃除に出かけた。この墓には叔母の後に入る人はいない。兄妹の子は代襲相続人になるから、叔母の相続人は多分今でも10人くらいはいると思うが連絡の取りようもないし、連絡もない。結局姪二人が後始末をする羽目になった。姪の一人は私の妻であり、もう一人は妻の妹である。
墓園の管理事務所から連絡があって、樹木が伸びて隣の埋葬関係者から苦情が来ているというのである。苦情が来ているというなら仕方ない。この際あとくされのないように、根こそぎすべての樹木を切り取ってしまおうと、のこぎりを積んで出かけた。
千葉県松戸市にあるが東京都の墓園だそうである。広大な敷地である。東京ドーム20個分というが、そう言われても20個の広さのイメージが湧かない。どのくらいの数の墓があるのか見当もつかない。
妹夫婦と現地で待ち合わせをしたが、お互い早めに着いたことになった。
妹の夫がチェンソーを持ってきたので作業は簡単に終わった。苦情を言われるほどでもない。あたりを見渡してみるとどこもかしこも荒れ放題である。昭和初期に作られた墓園であるから、無縁になった墓も多いことだろう。
妻の妹の夫は私とどういう関係になるのだろう。姻族関係にはならないと思うから義弟ということではないが、彼は私をおにいさんと呼ぶ。そう呼ばれて悪い気がするわけではないが、おにいさんと呼ばれるよりにいさんのほうが真実味がある。「お」がつくかつかないかで雰囲気が違う。おにいさんでは「ちょっとそこのおにいさん」と同じような気がする。
彼はトップクラスの国立大学を出て、今は鍼灸の仕事をしている。私の腰痛ではいろいろアドバイスをもらっている。彼とは昨年の叔母の納骨の日以来である。私の姿が元気そうに見えたのか、私にまた仕事を始めたらどうか、と言う。わずかな法律の知識がないために不利益や不便を被っている人が多い。私の知識を生かして、世のため人のために働けば素晴らしい人生が送れる、と言うのである。そんなに話し込む時間もなかったからその程度の会話で別れることになった。
働くということは、世のため人のためになることもあると思って働いてきたが、世のため人のために働くということは考えたことはない。働くことは何より自分のためである。かといって自分で言うのもなんだが、私は打算的な人間ではないと思っている。東京下町育ちのせいか、江戸っ子の気っぷの良さは少しは受け継いでいる。筋の通らない話であればいくらお金を積まれても仕事はしない。依頼人に同情すればタダでも仕事をしてきた。
歳をとったというのに歳をとった人がやるようなことを私は何もしていない。私の家には仏壇がない。以前近所の顔見知りの人から、仏壇がありますか、と質問を受けたことがある。質問の意味すら分からない。しかしその人は一家に仏壇は必要なものであると言うのである。そういうものなのかなと思ったが、あれから何年も経つが仏壇を買っていない。
世のため人のために働くという気持ちはない。もうしばらく、なるべく人と接しない生活を続けたい。仕事を辞めて社会から取り残されるような気になった時期があったが今はちょっと違う。人と関わらない気持ちの良さを味わっている。妹の夫が言う意味が分かる境地になっていない。
昨日、日曜日に続いてまた立川に行った。女房が日曜日に見て気に入っていた新種というアジサイを買うためである。黒っぽい葉に白い花。女房はとてもいいというが私には何がいいのか分からない。
昼になり蕎麦屋の前を通ったらとても安い。迷わず店に入りそばを食べたが、勘定書きが違う。私の思っていた金額は午後3時からの金額ということであった。価格表には確かに小さい字でその旨のことが書いてあった。やはり人と関わるのは不愉快なことである。楽しい1日が台無しである。(了)
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