不動産登記の本質(雑感)

つぶやき

不動産の登記制度は、不動産の権利者や権利内容を社会に公示する制度である。
今は個人情報の保護が厳しく問われている時代である。財産内容から借金の額、登記内容によっては勤務先まで分ってしまうような登記制度と個人情報の保護とはどのように帳尻を合わせるのであろうか。
登記簿は利害関係を証明しなければ見ることができない、ということにでもなるのだろうか。

「権利証さえ持っていれば嫁や兄弟に財産を取られることはない」、ということで登記制度は日本の社会に定着した。全く関係のない書類を権利証と思い込まされて、肌身離さず後生大事に抱えている。旧家族法的で、古い松竹映画風で、横溝正史を彷彿させる風景である。

登記をしなければ第三者に対抗できないというが、登記をするかしないかのイニシアチブは、登記を受ける者ではなく登記を失う者にある。買主がいくら登記をしたくても売主が応じなければ登記できない。それでも登記をしなければ第三者に対抗できない、と民法は定める。おかしな話だと思う。

登記は権利の証明制度ではない。登記が公示していることは「この不動産について自分が権利者であると名乗り出た者は次の者である」ということを公示しているのである。登記をした者は権利者であるが、そうではないかもしれない。しかし登記は、登記手続きに定める要件を充たしていれば登記をする。

権利は、社会生活における人や物との関係から当然に成立し消滅するものである、とされている。自分のお金で家を建てれば所有権者であり、所有者から買えば所有権者である。自分の家を解体すれば、登記があっても所有権は当然に消滅する。社会生活における人や物との関係を実体と呼ぶことにする。
登記はその実体をそのまま反映するものであるから、無効な実体によって生じた権利でも登記されることがある。無効な登記は無数に存在していると思われるが、登記とはそういうことにならざるを得ない。

登記を信用して取引をしたら登記に記載されている所有者は実は所有者でなかった、という場合、登記を信用した者は保護されるか、というのが公信力の問題である。
登記には公信力はないと言われるがあったっていい。
公信力はない、というのは法理論の問題ではなく、国のやる気の問題である。登記を信用するな、と言っているのである。これもまたおかしな話である。

登記は当事者の申請があって行われるものとされている。
その申請に基づいて登記手続きが終わると、登記所は登記識別情報と登記完了証という書類を申請人に交付する。
この書類には宛名がない。とくに登記完了証という書類は、文字通り登記が終わったことを申請人に通知するものである。それなのに宛名がない。誰に完了したと言っているのであろうか。
登記は当事者の申請によって行うが当事者のためではなく国の行政行為である、ということを示していのである。そういえば自分が所有する不動産にも税金が取られる。国にすれば、一時貸しているだけのことで賃料を払うのは当然だということである。

登記識別情報は登記所が登記名義人を確認するための秘密の暗号のようなものである。以前は登記済証という書類が果たした機能をコンピューター手続きに移行する際、導入したものである。
これを登記済証と同じように権利証と呼ぶ人たちがいる。どうしても権利証がないと格好がつかないらしい。しかし登記名義人を識別するとは失礼な話である。牛や豚じゃあるまいし、識別札と同じ発想である。

昔の登記簿謄本、現在の登記事項証明書の末尾にある認証文の文言は「この謄本は登記簿の全部(または一部)を写したものである」「この書類は登記事項の全部(または一部)を印刷したものである」となっている。全部か一部かを写した、または印刷したということが大切な事らしいのである。

売主に裏切られないようにするための登記の登録免許税が高すぎる。客を紹介してくれた不動産屋に払うリベートを、免許税に上乗せるような司法書士がいる。誰がやっても同じ結果になる登記の報酬が司法書士によって違いすぎる。「私の事務所では一番上質な紙を使って登記申請しています」こんなことが高い報酬の根拠である。司法書士の報酬はあいみつをとるべきである。(了)

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