上野文化会館

つぶやき

 メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトを「女の人が泣いている」として友人が小説を書いたことがある。

 恋愛など知らない10代の高校生に、なにか淡い甘美な思いを感じさせる友人の小説であった。この友人は昨年コロナで亡くなってしまった。

 中学時代の女性の友人と連絡が取れない。携帯電話が「現在使われていません」になっている。何かあったはずである。

 小説を書いた友人も、その死を知るきっかけは携帯電話の不通であった。
 彼女と共通の友人に電話をしたが、「亡くなったとかいうことではないと思う」という返事であった。なにか複雑な家庭の事情があるらしい。

 この中学時代の友人とはなんとなく長い付き合いになった。女性2人と男性2人の仲間としての付き合いが、社会人になっても続いていたのである。4人とも結婚するような間柄ではなく、ただ連絡を取り合うだけの関係であった。

 高校4年生(定時制高校は4年制である)のとき彼女を演奏会に誘った。
 彼女は女子美の付属高校に進学し、その時女子美大の1年生であった。

 演奏会は若杉弘さんの指揮する読響の第九演奏会。会場は竣工間もない上野の東京文化会館。もちろん季節は初冬。

 音楽会はいつも学生服であったが、大人っぽい格好で行きたかった。人生初めて女性との音楽会のためにジャケットを買うことになった。慣れぬネクタイに閉口しながら出かけた。

 彼女とは文化会館の入口周辺で待ち合わせることにした。
 目も覚めるようなあでやかな服装で彼女は現れた。彼女も大人の格好に憧れていたのかもしれない。

 場所は日本で初めてという演奏会専門の素晴らしいホール。音楽は今を時めく若杉弘さんの、読響常任指揮者としての初めての第九。
 どんなきらびやかな格好をしても似合う華やかな人々と会場であった。

 それから何十年か経ってあの演奏会のことを話す機会があった。
 「なんか大人になったような、あんな華やいだ気持ちになったのは初めて」と彼女は私に話した。

 あの時、彼女は私の気持ちを理解していたのだと思う。恋愛関係にならないことはお互い承知のことである。20才前の、気持ちの揺れ動くときに、大人のような雰囲気を経験してみたかったということを。

 彼女がクロークでコートを脱ぎ、手袋をはずしながら私を見つめた微笑はまるで女優さんのようであった。
 私が買ったジャケットはグレーのツイードであった。
 お互い大人の世界に踏み入れる一歩手前の音楽会であった。(了)

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