昨日は正月7日。七草がゆを食べる日である。
七草はスーパ―に行けば手に入るようであるが、我が家の七草は二草くらいである。
七草がゆは1年の無病息災を願うものとされているが、二草ではそれは叶わないのかもしれない。
しかし二草であっても食べないよりは食べた方がいいと思いながら、7分(しちぶ)で炊き上げた七草がゆをお代わりした。
正月7日の七草がゆ。縁起なのか7という数字が続く。この数字は偶然かどうか知らないが、ヨーロッパでも東洋でも特別な 意味を持っているようだ。仏教でも初七日、四十九日と大切な数字として考えられている。
医療のない昔の人々の生活において、健康とは祈ることだけだったのかもしれない。
薬師如来からとげぬき地蔵など、健康にまつわる信仰施設は日本全国津々浦々にある。
とげぬき地蔵と訊けば、今ではどのような地蔵さんなのか分かりにくいものがあるが、昔はとげが原因で死ぬことも多かったのであろう。農作業にはとげがつきものである。
目の病の地蔵、中風よけの地蔵、歩くための地蔵、子供の健康のための地蔵など、庶民が祈る対象は地蔵であることが多い。如来様や観音様では偉すぎて敷居が高いということであろうか。
七草がゆの習慣は平安時代に始まったというが、この時代の人の寿命はいくつだったのか。七草がゆを食べながらそんなことを考えていた。
正月気分も7日までということだが、今年は7日が土曜日、9日は成人式の祭日で、社会が本格的に動き出すのは10日からということになるだろう。
仕事をやめてしまうと日にちや曜日が分からなくなる。予定も何もなければ日付なんてものはなんの意味のない。
年寄りによく、「今日は何日ですか」と聞くが、何日であるかは用事があってこそのものである。年寄りは毎日予定もなく単調な日々を送っているのだから、日付や曜日など必要のないものである。
答えられなければ「始まっているのかな」などというような顔つきをするが、年寄りの生活を分かっていないだけのことである。
今年は仕事をやめて2年目である。今年も喉頭がんの定期検診と頚椎症のリハビリで病院通いになるであろう。
病気ではなく仕事を引退する予定があった。外国旅行のためである。音楽を愛した人生、一度はベートーベンやモーツァルトのゆかりの地を訪ねてみたい。ウィーンの3拍子を体験したい。町角の辻音楽師のバイオリンを聴いてみたい。
学生時代所属していたオケの指揮者はN響の団員だった。N響が初めてヨーロッパに演奏旅行をしたときのことを話してくれたことがある。
その話の中で私が覚えているのは、「ヨーロッパに行って、あれはこのことだったんだな、と思い当たることがたくさんあった」ということだった。
そうだろうなと私は先生の気持ちが良く分かった気がした。ハイリゲンシュタットの田園、森を手を後ろに組んで歩いてみたい。そのためにも歩けるようにしなければならない。
介護施設にいた友人が昨日亡くなった。たった今家内から聞いた。なんとも寂しい話である。
以前住んでいたマンションの管理組合で一緒になったことがある。我が家で何度か酒を酌み交わしたこともある。私のために乾電池アンプを作ってくれた。人なつこい人ではない。どちらかと言えばドライな人であった。
「そういう話は私には関係ありませんから、なにも話すことはありません」ということを普通にしゃべる人だった。
しかしそれが嫌味にはならず、かえって人の信頼を得るような人だった。
高校生の頃の奥さんを見初めて、卒業を待って結婚したらしい。
奥さんは最後までそばにいられたようだ。消えゆく意識の中で、愛した妻を見つめることができたのなら何よりよかった。ご冥福を心から祈る。(了)
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