ローマの休日が去年テレビで放送されたときのことだと思うが、いつも仕事で一緒になる顧問先の女性社員とこの映画の話をした。
しかし彼女はその映画を知らないと言う。観たことも聞いたこともない、と言うのである。
そんなはずは、誰でもみんな知っている映画ではないか。まして彼女はそれほど若い女性ではない(その女性に失礼であるが)。知っていて当然ではないか、と私は事の意外さに驚いた。
考えてみれば私の思い込みが過ぎたということで、たとえあのローマの休日でも、もはやいにしえの映画である。知らないというのは当然のことであった。
しかし名画や名作、名曲が忘れ去られていくというのはもったいない気がする。
人生には読むべき本、聞くべき音楽、見るべき絵というものがあったはずである。
あの感動を知らないなんて、と思うが、しかしこれも年寄りのお節介という類の話になってしまうのであろう。
そういう私にしてもたくさんの名作、名曲を知らぬまま生きてきた。人に感動を言えるほどのものではなかった。
何年か前、松本清張を知らない、という70代の男性に遭った。彼は不動産会社の会長さんである。お金持ちで結婚を3回もしている。結婚を3回もしていると書くのは、私に言わせればろくでもない男ということである。
野球選手として早稲田の2部を卒業したらしい。
文学も音楽も絵のこともほとんど分からないらしい。宅建も持っていないようだ。
しかし商売と女性にかけてはすばしこい男だった。人生に教養は不要のようだ。
あのときローマの休日のなにを話そうしたのか覚えていないが、相手が女性であったからヘプバーンの衣装かヘアーカット、あるいは記者会見のシーンか。いずれにしても年寄りの面倒な話ということになったのかもしれない。
ローマの休日を初めて観たのは高校生のときである。リバイバル上映である。
観終わって去りがたいほどの、ほのぼのとした気持ちに包まれた。
この映画は一人で観る映画ではない。観終わって二人で無言で歩きながら、互いに余韻を楽しむ映画である。
後年リバイバルのリバイバルで上映されたとき、同じ映画館である女性と一緒に観た。映画とは違い私たちは悲恋にはならなかった。
王女と新聞記者のあり得ない恋物語を実にうまく作ってある。
もちろん二人の恋は結ばれることはないが、しかし観る者に悲しみを与えず、それでよかったんだ、と観客を納得させる映画である。
私はこの映画について大分経ってからのことであるが、あることに気がついた。それはグレゴリー・ペック扮する新聞記者ブラッドレーとエディ・アルバート扮するカメラマンアービングの関係である。二人はまさに対等なのである。
アービングはブラッドレーの引き立て役ではない。アービングがブラッドレーを殴ろうとするシーンもある。飲み物をこぼされたり椅子を倒されたりしたアービングが怒りを表すのである。
これが日本の映画であればどうだったであろうか。二枚目と三枚目という上下主従の関係になっていたはずである。八五郎が銭形平次を殴ることはない。
記者会見に出席するかしないか、王女を隠し撮りした写真をどうするのか。売ればセンセーショナルな写真として大金が入る。
しかしブラッドレーは指示もしないし頼みもしない。アービングの好きなようにしてくれ、と言う。
それまで描かれていたアービングのキャラクターからすれば、彼が写真を売ってしまうことは十分考えられる。しかし彼はアービングの自由に任せる。
考えてみるとこのおとぎ話がハピーエンドとなるか否かは、アービングにかかっていることになる。
記者会見までの時間、彼はどのように過ごしたのであろうか。写真を売るか売らないか。彼はアンとブラッドレーが恋仲になっていることを知っていたのであろうか。知っていたとしても金の魅力には勝てないのが人情である。
最後の記者会見のシーンに現れたアービングは、特ダネ記事を書かないブラッドレーをなじったことも忘れたかのように紳士であった。
写真はローマの思い出のためにとアンに渡す。アン王女の秘密が暴露されることはなかった。
アービングはどうして大金をあきらめたのだろうか。確かに言えることは、ブラッドレーもアービングも週刊文春の社員ではなかったということにある。
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