「ラヴ・イズ・オーバー」という歌謡曲が流行った。1980年の前後に台湾の歌手の欧陽菲菲さんが歌った歌である。
その歌に、「わたしはあんたを忘れはしない 誰に抱かれても忘れはしない」という詞があった。
それから何十年かして、欧陽菲菲さんが久しぶりに来日して、「ラヴ・イズ・オーバー」がヒットした時のことなどについてインタビューを受けた時、「あんな歌は歌いたくなかった。『誰に抱かれても忘れはしない』という歌詞はとても屈辱的だった」、とかなり憤慨して話していた。
ジュディ・オングさんが歌って、日本レコード大賞などを受賞し、大ヒットとなった「魅せられて」という曲は、思っていたより古く、1979年に発表されたものだった。「ラヴ・イズ・オーバー」とほぼ同時期ということになる。
その歌詞に、「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」という部分がある。後半部には、「やさしい人に抱かれながらも強い男にひかれてく」という詞もある。
「ラヴ・イズ・オーバー」の作詞は男性。「魅せられて」は女性である。
欧陽菲菲さんは納得しないどころか、憤慨して歌っていた。
「誰に抱かれても」ということは、素人の女性ではないということだから、怒るのも当然である。
ジュディ・オングさんは、女はそういうものだ、と納得して歌っていたようだった。
「それが何か問題なのか」、と言う人もいるだろうが、やはり問題ではなかろうか。女性の貞節というものがない、と言っているのであるから。
しかし貞節とは古い言葉である。
少し話が変わるが、以前にも書いたことであるが、「魅せられて」の、「Wind is blowing from the Aegean」につけられたメロディーは、普通の作曲家は使用しないものである。
使用しないと書いたのは、つまりこの曲を作曲した人のオリジナルではないということである。
このメロディーは昔から存在しているものであり、このメロディーを使うことは、作曲家として恥ずかしいことと認識されていたものである、と私は考えている。
「ラヴ・イズ・オーバー」も「魅せられて」も、歌った人はいずれも台湾の人である。
「台湾の人」と言えばテレサ・テンさん。
テレサ・テンさんをテレビで見たことがあるが、彼女の顔と歌う歌の内容のギャップを感じたものだった。
あらためて彼女の歌った歌の歌詞を見てみた。みんな日陰の女性を歌ったものばかりである。彼女はどこまで歌詞の意味を解っていたのだろうか。
作詞家は、これぞとばかりに、テレサ・テンさんを本妻にはなれない愛人にしてしまった。
彼女の歌を聴いていると、すぐ隣にレコーディングディレクターがいるようである。
発音から歌い方から盛り上げ方まで、全部口移しのように教えていたようである。
彼女は歌詞を理解して歌っていなかったのではないか。
日本の作詞家は、ジュディ・オングさんは別として、台湾の女性歌手があまり日本語が分からないことに乗じて、男の勝手な言いぐさを歌わせてきたのではないか。(了)
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