我が町にシンボルと呼べるような建物はないが、唯一大きな建物であったス―パーマーケットが閉店する。
開業して40年以上経つはずである。
A館B館と売り場面積は広く、開店の時は売れっ子芸人も来て華々しく開業したが、10数年前からアメリカ企業の傘下に入り、今は倉庫の中で買い物をしているようになってしまった。
町にとっては衣料品、日曜雑貨、食料品など、なくてはならない店であるがマンションになるらしい。
商売はお客様あってのもの、と言ってきたが、売れなければお客様どころではない。
これからはパンツ1枚買うのに、電車を2駅も乗らなければならない。
ス―パーマーケットは、昔からの商店や商店街を町から消滅させて存在してきた。それが今度は時代の波に押されて自らが消えようとしている。
このスーパーができたときは、町そのものが新しい町であった。
駅が新設され、区画整理地に町が造られたのである。マンションや一戸建が建ち並び、住む人たちは30代から40代が中心だった。
それから40年以上が経ったわけであるから、町自体が老化するのも当然である。
駅前のマンションの1階は商店街のスペースであるが、ずっとシャッター街である。
天丼のチェーン店が開業したがすぐに閉店してしまった。ファミレスもコンビニまでとっくに撤退である。
歳をとったとはいえ皆生活しているわけだから、物が売れない、食べ物屋に人が入らない、ということはないように思うのだが、どういうことなのであろうか。
考えられることはたった一つ。皆お金を使わない、ということである。余分な物は買わない、必要のない物は買わない、あればいいという物も買わない。贅沢品に関してはとんでもない、ということだろうか。
以前は、通りがかれば世間話のひとつもした人が、話をするのももったいない、とでも言いたげに通り過ぎる。ケチに拍車がかかっている。
ヨーロッパのミツバチは、敵が巣に近づいたときは相手に向かって身構えるというが、日本のミツバチはお尻を相手に向けるだけという。
本当かどうか確かめたことはないが、中公新書に著名な学者が書いている。
なんとなく判る気がする。日本の母親は危険が迫った時、子供を抱えて危険に対して後ろ向きにしゃがみ込む。危険が通り過ぎることをひたすら待つ。
みんな後ろ向きにしゃがみ込んで生活しているようである。
高齢世代は新しいことができる世代ではない。以前は高齢者の後に次世代があった。次世代の後には若者世代が続いていた。しかし今は全部の世代に新しさが無くなってしまったようだ。
新しいことは発展である。発展とはさらにいい物が作られ売られるということである。世の中すべて安売り品ばかりになってしまった。これでは楽しくもないし、ただ生活を守るということでは面白みがない。
そのうち衣料量販店が高級衣料品店になるのであろう。
何事にも発展と衰退はある。しかし日本の発展はずいぶん短期間であった。
昭和で言えば30年代から60年代のせいぜい40年くらいのことではなかったか。
平成になった時はバブル崩壊である。バブル期にはニューヨークのマンハッタンのビルまで買ったというが、すぐに手放した。よく成金がやったことである。
昔、別荘分譲のインチキ商法で儲けた男がプロ野球の球団を買収したが、1年ももたなかった。これを「実に日本的」と言うのであろう。
戦争に敗けて日本は、アメリカに追随しなければ国としてやっていけなかったのであろうか。同じ敗戦国であるドイツやイタリアはそんなことはないように見える。中国や北朝鮮にまでアメリカの太鼓持ちと馬鹿にされている。
自分の頭で考えることが大切であるが、日本は自分の頭で考えてこなかったように思う。
ウクライナ、北朝鮮、台湾進攻、食糧難、地球温暖化、南海トラフ、首都直下。
いくらでも数え上げられる危険があるのに、日本はミツバチのようにお尻を向けているようにしか思えない。
悲観は良くないが、悲観から目を背けることもよくない。根拠のない楽観は落とし穴のある道を歩くようなものである。(了)
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