ヘイトスピーチと変わらない  

つぶやき

 19日付朝日新聞デジタルに次のような記事があった。

 ロシアの反政権派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が収監先で死亡した問題をめぐり、林芳正官房長官は19日午前の記者会見で「政府として重大な関心を持って状況を注視していく」と述べた。

 G7外相は、17ロシア当局に対しナワリヌイ氏死亡解明と、市民的権利の不当な制限をやめることを求める声明を発表した。

林氏はこの声明に触れ、「我が国として
、G7各国と緊密に連携し、その成果として議長声明で死因を完全に明らかにするようロシアに要求した」と述べた。

 バイデン米大統領が「間違いなく死の責任はプーチン(大統領)にある」と述べるなど、米欧諸国はプーチン政権の関与に疑惑の目を向けている。

一方、林氏は会見で
日本政府として死亡の責任はどこにあると考えるか、を問われたが、「確定的な情報を有しておらず、コメントは差し控える」と述べるにとどめた。

以上文言は原文のままだが、不要な部分は割愛した。 

「政府として重大な関心を持って状況を注視していく」

 重大な関心を持つということはなんとかするということだと思うが、いつもなんとかしたことがない。重大な関心を持つ、ということだけが重要なようである。

北朝鮮による拉致問題の時にもこの発言があった。こういう言い方はもうやめよう、と言いたい。注視は行動の中止
と同義である。

 「確定的な情報を有しておらず、コメントは差し控える」
 あの高齢のバイデンだって確定的な情報など持っていないのに「責任はプーチンにある」と述べている。

記者は
確定的な情報が得られていないのは承知の上で、「死亡の責任はどこにあると考えるか」と訊いている。事実を訊いているわけではなく考えを訊いているのである。

 この朝日の記事は笑い話として掲載したものではないだろうか。

 意見とは推察に基づくもの。あなたはどう考えるかということである。確定的な情報にもとづくものは意見ではなく事実ということになる。

仮定に基づく意見は差し控えたい、と日本の政府関係者は言うが、いい加減なことは言いたくないということではなく、とにかく自分の意見は言わないほうがいいということである。思慮深いのではなく思慮の放棄である。だから日本の政治家には魅力がない。 

 政治の批判は誰でもできる。「鋭い観察力」など必要ない。政治自体が批判の材料を提供しているからである。提供された批判材料を批判するのも情けないことである。
 
 とここまで書いてきて、我ながらつまらぬ文章を書いてしまったと思った。こういう文章には楽しさも美しさもない。ヘイトスピーチと変わらないではないか。「鋭い観察力」とは鳥や草花に向けられてのことであった。

こんな文章を書いていてはいけない。己を貧しくするだけである。
なんのためにリタイアしたのか。なんのために嫌な思いをしてまで働いてきたのか。全文削除しようと思うが自戒のため残し、反省の文章にしようと思う。

 どういう文章を書くかは己が試されることである。結局恥をさらす以外何もないことになりそうであるが、「それもまた人生」である。人生は自分の足でしか歩けない。 (了)

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