ビデオ判定

つぶやき

 大リーグで、ホームタッチアウトとされたプレーが、ビデオ判定の結果セーフとなったニュース映像があった。
 ビデオ判定というと記憶に新しいのは、昨年のサッカーワールドカップである。

 日本対スペインの試合で、三笘選手がゴールライン際から蹴ったボールが、ビデオ・アシスタント・レフェリーと呼ばれる審判によるビデオ判定で、ラインを越えていないと判定されていろいろ話題になった。
 しかしビデオ判定をさらにビデオ判定しなければならないほどの、きわどいケースであった。

 スポーツ選手は結果がすべてであるからその判定が正確でなければマインドに関わることになる。ひいてはスポーツ全体に対する信頼もなくなってしまう。

 ビデオによる判定制度がなかった1978年の日本シリーズで、ホームランをめぐって1時間をはるかに超える中断騒ぎがあった。

 ヤクルトの大杉選手の一打がレフトポール際からスタンドに入った。線審は本塁打と判定。これに対して阪急の上田監督は猛然と抗議した。
 結局抗議は認められず1時間19分という中断時間がプロ野球の新記録として歴史として残った。

 3勝3敗で迎えた決勝戦でのことである。ヤクルトの選手はファールと思っていたらしい。ヤクルトのホーム球場のことであるから、1塁ベンチからはレフト方向のボールがよく見えたのかもしれない。でも上田監督の抗議に同調するわけもない。

 以前は審判の判定は絶対であった。一度なされた判定が覆ることはなかった。判定が覆されるようでは野球にならない。審判は絶対的存在であるとしなければルールが成立しないことになる。
 しかしそう言いながら審判の地位は低く、給料も安い。時々小さな箒を取り出してホームベースの掃除までしている。

 最近は審判の判定は覆る。スポーツの世界が本来あるべき正しい姿になったということなのだろうか。
 そうなると、では審判は何のためにいるのかという疑問が生じてしまう。

 審判は誰の目にも明らかなことを審判しているだけで、誰の目にも明らかでないことは機械に任せる。そんなのは審判ではない。ということになるが、そんなことを言っても始まらない。そういう審判の時代になったと納得するしかない。

 相撲の審判は最初から覆ることを前提としている。土俵上で勝負を見届け判定する行司のほかに、勝負審判員と称する審判員がいるということがそもそもおかしい。

 相撲は勝ち負けの当事者である力士に不服申し立て権がない。物言いというのは行司判定に納得できない当事者のお相撲さんが言うことではないか。権威あるべき行司の判定に、同じ相撲関係者の親方たちが物言いを言う。やはりおかしい。

 私はどうもこの審判員の協議というのが嫌いである。行司という審判者がいながら「お前はどいとれ」という感じで結論を決めている。行司さんは単なる飾りということになっている。

 一人の女性が胸にナイフが刺さった状態で発見された。殺人事件である。
 彼女の恋人と言われている男を警察は逮捕した。男は「殺していない、女の方から私の腕に飛び込んできて自分で自分の胸を刺した」と語る。

 ナイフは男の物であるから警察は信用しない。結局男は殺人犯となる。
 そんな小説があった。

 小説だから真実なるものが記載されている。
 女はその男が好きだったが男はそうでもない。しつこい女に閉口していた。
 女は家庭の事情やなんやかやで借金問題も抱えていて生きることに絶望していた。
 最後の助けを男に求めるが、男はたまたま持っていた果物ナイフを構え、これ以上俺のそばに近寄らないでくれと言う。

 女は、あんたに殺されるなら本望と、自ら男が構えるナイフに胸を預ける。
 ということが事実である。

 しかし裁判官はこのことを認定しない。自分からナイフに飛び込むなんて話を信用することはできない、と男の主張を退ける。
男が果物ナイフを持っていたということが男の犯行を裏付ける。
 
 事実は現実に存在しているものであるが、認定という作業を経なければ、その事実は社会的にも法律的にも存在していることにならないことになっている。
 しかも認定という手続きを経て得られる事実は客観的なものに限り、主観的な事実は認定しようもない。

 前述した事件は小説だから読者は被害者の気持ちまですべての事実を知ることになるが、現実には事実を知ることは出来ないと言った方が正確である。
 裁判官に語らせたように、信じがたい事実は確固たる証拠がなければ誰も認めない。

 女が自らナイフに向かって行ってそれで死んだということは、目撃者かビデオテープでもなければ証明どころか説明することすらできない。
 この事件で裁判官が認定したものは、男のナイフで女が死んだということだけである。女が自らの意志で死んだということは認定できない。

 男と女がいて、女が男のナイフを胸に刺して死んだのであれは、男が殺したことは明らかだ、という認定しかしない。

 事実認定は重要な手続きであるが、事実として認定することした、ということであって、事実に到達したということではない。

 事実を認定することは難しい。いい加減なものであると言っても言い過ぎではない。
 他人に認定されることのない人生を、一人悠然と歩むことが最も大事なことである。(了)

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