私が住む町の唯一のデパートが、3年ほど前にリニューアルと称してショッピングセンターになった。
「百貨店と専門店を融合したハイブリッド型ショッピングセンターの誕生」と華々しく新装開店となったが、採算の取れない自営店舗を閉店してテナントビルになったということである。
専門店なるものが家電や衣料品、メガネや靴の量販店だと知れば、何がハイブリッド型なのか、たんなる雑居ビルではないかと苦笑したが、あれほどのデパートがこういう姿に変わろうとは、昨今の物が売れない世情というものを実感することにもなった。
デパートがテナントビルになるというケースは、銀座の老舗デパートもそうであった。時代のニーズに合わせるということだが、デパート経営という視点では時代のニーズが分からなくなってしまった、ということであろう。
だから分かる人たちに場所を貸して、時代にマッチした商売をしてもらう以外、老舗デパートの暖簾を残せない、ということなのではないか。
つい最近、渋谷でもデパートがなくなるという記事を読んだ。今渋谷はまさに時代のニーズを先取りしたような町である。
その町に、もはやデパートは要らない、と時代が判断したことを示したことになる。
小学4年の3学期に、東京の下町から新宿の小学校に転校した。
私たち親子が世話になっていた叔母夫婦が、駅前の区画整理事業を機に引っ越しをしたからである。
叔母や母から、新宿は山の手だからちゃんとするんだよ、と言われたが、山の手がどういうものなのか知らなかったし、後にして思えば新宿の町は山の手ではなく、山の方というだけの雑多な町であった。
引っ越しのとき、叔母の店に出入りしていた運送会社の社長さんの運転するトラックの荷台に乗せられた。
そのころは荷台に人を乗せても違反にならなかったらしい。
姉や兄が一緒だったか覚えていない。
飼っていたチルという名の犬を抱きながら、初めて見る神楽坂という町の夜景を通り過ぎた記憶がある。
転居先は駅から早稲田通りを早稲田大学方面に15分近く行ったところである。
この町に引っ越してまず気づいたのは坂が多いことであった。結構急な坂が町のあちこちにある。グランド坂、夏目坂、八幡坂など名のつく坂もある。
後に、トラックで通った神楽坂から新宿方面は台地のようになっていることを知った。
またこの町にはもうひとつ気づくことがあった。原っぱがないのである。
下町には坂はなかったが原っぱはあった。
戦後の焼け野原が残っていたということであるが、子供たちにとって遊び場所には事欠かなかった。
しかしこちらには空き地というものが全くなく、子供たちが遊んでいる姿を見ることがなかった。
6年生の頃だったと思うが、一人で電車に乗れるようになった。
なにより下町の小学校を見に行きたくなった。隅田川を電車が渡ると左手に3階建ての小学校が見える。そのころ望郷という言葉は知らなかったが、懐かしさが子供心にもこみ上げてきた。
同じころ、私は西武線に乗って新宿まで行くようになった。当時子供の運賃は片道5円であった。
今の西武新宿駅は商業施設やホテルもある大きなビルであるが、当時は木造平屋の駅舎であった。
伊勢丹というデパートがあることを知り、デパートは何を買わなくても入っていいことも知って、デパートは私にとって格好の遊び場所となった。
遊ぶといっても遊びようもなく、ただエスカレーターに乗って各階を昇り降りし、好きな商品があればそれを見て、記録映画の鑑賞会などの催し物があればそっと座って眺めていたり、ということである。
冬は暖かく夏は凍るように涼しかった。今思えば、何を買うわけでもなく大食堂に入るわけでもない、何が楽しかったのであろうか。いつ行っても「お祭りみたいににぎやかね」の歌のように、心ときめくものがあったのであろう。
今、住まいの最寄り駅から伊勢丹の玄関先まで、乗り換えなしで行けるようになった。コロナの前にはよく行っていたがやはりデパートはいい。人の気持ちに話しかけてくるものがある。大きな玉手箱のようである。
百貨店が誕生して100年以上経つという。紙袋や包装紙にステータスがあった。まさかその紙袋に代わって衣料量販店のビニール袋が闊歩する世になろうとは。とんでもない急カーブを切って時代が変わってしまったのだと思う。
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