我が家の夕食は早い。私は4時頃から飲み始めることが多いが、それは食事の前に少し酔いたいというだけのことなので、酒のつまみだのなんだのというものは要らないのだが、女房はそういうわけにもいかないのか台所に立つ。そんなことから早い夕食ということになる。
女房の父親は酒好きだったが、食べながら飲む人であったので、母親が酒の肴を用意する姿を子供頃から見ていたようだ。そのためか私の酒飲みには理解がある。
「まだ早いじゃないですか」と言いながら、タラの芽やウドのてんぷらなど、なんともうれしい料理が出てくる。年寄りは、台所が汚れるということからあまり揚げ物はしないというが、やはりてんぷらはうまい。
女房が食卓に座るのは5時頃となる。その頃私は「いい人生だったなあ」と酔いにまかせたいい加減な言葉を口にしていい気持になっている。
女房は酔っ払いなど相手にしないという顔をしながら箸を手にする。女房は酒を飲まないからおかずだけを食べることになる。私はすでに食べ終わっている。
仕上げに何を食べるか。その日の酔い方次第である。そのため妻は再び台所に立つ。贅沢なことをさせてもらっている。このところおいしい茶漬け海苔を見つけたので、お茶漬けが多い。
先日いつもの食卓で、「荻須はなかなかいいなあ」などと私が口にした。妻が怪訝な顔をするので、「荻須高徳のことだよ」と言うと、妻が「荻須?、佐伯ではなくて」、と言う。
佐伯祐三展が東京駅の美術館でやっているらしい。佐伯もいいが荻須だって佐伯に負けないくらいいいじゃないか、というだけのことで深い意味があってのことではない。
モンマルトルの話になった。丘があって教会があって、画家が絵を売っている。そんな風景をテレビや雑誌で見た事がある。妻は何年か前に歩いたことがあるという。
「モンパルナスの灯」という映画を思い出した。モジリアニと恋人ジャンヌの物語である。ジェラール・フィリップの魅力を話題にしたが、妻は見ていないという。
ジェラール・フィリップを知らない。この映画の他にも「肉体の悪魔」などに主演したが早逝した俳優である。絵を描く人としてぜひあの映画は見た方がいいよ、と妻に話した。
そういえばモンマルトルとモンパルナス。違うのか同じなのか良く分からない。そんなレベルで妻にフランス映画の話をしていた。映画はモンパルナスの灯だった気がする。
フランス映画の女優と言えばカトリーヌ・ドヌーブであった。とてつもない美人である。先日ジーナ・ロロブリジーダが亡くなったという報道があった。彼女はフランス人ではないが、彼女もすごい美人だったなと思い出しながら、酒をつぎ足した。
シベールの日曜日というフランス映画があった。妻に「見た?」と訊くと「見た」と言う。私たちが16才か17歳くらいの時である。
題名もいいし、ポスターも誰もが映画を観たくなるような美しいものであった。
冬木立を背景に、30歳をとっくに過ぎたような男が12歳くらいの少女を抱きしめている。
なにか深いわけがありそうな、悲しみを感じさせる二人である。少女はパトリシア・ゴッジ。男性はハーディ・クリューガーが演じていた。
戦争で記憶を失った男と、どういういきさつか忘れたが家族に捨てられ、孤児院で暮らす少女がふとしたことから知り合い、日曜日ごとに公園で待ち合わせるようになる。
逢瀬というには2人の年齢からして不似合いであるが、戦争で心を病んだ男には救いであり、孤独な少女には初めての幸せであった。
「私が今いくつだから私がいくつになった時あなたはいくつになる。その時に結婚すればいい」(具体的な年齢は覚えていない)と少女は男に言う。幼さと大人の女性を感じさせる少女に不思議な魅力があった。
彼女は最初フランソワーズと名乗るが、男を信頼できると思ったとき本名はシベールであると告げる。
その名前を聞いた時、男の顔になぜか喜びの表情が浮かんでいた。シベールという名前が、彼の心の病を救うように描かれている。
男は、少女を誘拐したと誤解した警察官に撃たれて死んでしまうのであるが、その時のシベールの泣き叫ぶシーンが記憶にある。モノトーンだったと思う。
フランス映画、フランス音楽。出発点は同じということなのだろうか。人々に共通の感動を求めるのではなく、感動は観る者、聴く者、一人一人の自由でいいと言っているようである。
荻須、モジリアニ、シベールと話をしながらの酒はやはりワインであろうが、私の飲みつける酒は焼酎。
今日の仕上げはバゲットではなく焼きおにぎり。酔った胃袋には醤油の香りがいい。
フランスの香りは食卓にないから、せめて音楽はとサティをかける。
ゆったりとした時間が流れる。冬の夕暮れのいつもの食卓でのことである。(了)
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