コール・エルデの思い出

つぶやき

 夜間大学に入学してコール・エルデという合唱サークルに入ったが、そのときの指揮者の先生のことをときどき思い出すことがある。

 音楽についてのこともあるが、サークルのレクリエーションで城ヶ島に行ったとき、先生は当時7、8歳くらいと思われる息子さんを連れてきた。

 なかなか利口そうな息子さんだったが、その息子さんと先生がなにか語り合っているような、いないような、秋の城ケ島の海辺を散策している二人を遠目に見たが、その姿が印象深いのである。

 この合唱サークルのことは以前このブログに書いたことがあるが、民青の人が何人かいて、そのせいか当時のソ連の合唱曲や日本民謡などをとりあげていた。

 私が知った当時先生は40代前半というところだろうか。音楽大学を出たようには見えなかった。アコーディオンの名手で、東京労音でアコーディオンを教えていたらしい。

 10数年前、団名に税務という名称が入っていたある合唱団のホームページでこの先生の死を知った。

 先生が作曲した創作オペラを見に行ったことがある。
 戦争を題材にして、自由・解放のために戦うというような内容であったが、正直言ってつまらなかった。音楽的にも特別感動するような旋律もないし、盛り上がっても照れ臭いだけだった。
 
 公演が終わって私を誘った先輩と飲みながらオペラについて話をしたが、彼は絶賛していた。

 メロディやハーモニーの美しさを求めると人は孤立してしまう。音楽は人を連帯させるものでなければならないと言う。そういうことから先生の作品は素晴らしいというのである。

 先生は感受性豊かな若い頃、音楽の素晴らしさに感動して音楽の道を選んだのだと思う。音楽で社会を変革できる。そう思ったのかもしれない。
 
 失礼を承知で率直に言えば、音楽では食べてはいけないという社会で、聴く者もいない舞台音楽の作曲や、夜間大学や職場の合唱団の指導をして、どうやって家族を養い生活をしていたのだろうか、ということが後年自分が社会人になって気になった。

 自分の理想を求めて音楽に生涯をかけた父親とその息子。息子さんは父親を理解したのだろうか。
 
 あの日城ヶ島での二人の語り合うでもない、楽しげでもない姿がとても気になるのである。だがいい父と子であったのだと思う。

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