コロナは結局どうなったのだろうか。こんなことを考えるのはまだ早いのかもしれないが、最近の政府の対応を見ていると「この問題はもうこのくらいでいいんじゃないか」という感じである。
名称も「コロナウィルス感染症2019」とするらしい。新型という文字を削除し、発生時の年を付記したことになる。
「終わったことにしよう」、という政府の意図が見え見えだ、という批判があるが、そうとも言えるし、名称というものはこんなものではないか、とも言える。
現時点の感染者数はだいぶ減ってきているようであるが、あの時の大騒ぎはなんだったのだろうか、と思う。大騒ぎした割には尻切れトンボのようでなんの総括もない。これからされるのであろうか。
また感染増大を繰り返すのかもしれないが、政府も誰も以前のようには騒ぐことはないだろう。慣れてしまった、飽きてしまった、ということのようだ。
あの大騒ぎの経緯をいちいちたどる必要もないが、大騒ぎになった意味を考えることは必要だと思う。
一国の総理大臣が、コロナで社会がてんやわんやしているときに、その問題から逃げるように辞任した。(健康上の理由もあったようだが、森友問題のスキャンダルを含め、国民には無責任に辞任したとしか見えない)
後を継いだ総理大臣は大騒ぎになった状況を把握できず、コロナの対応を誤り、確実とされていた次期総理の座を辞退せざるを得なくなった。コロナはそういう政治的結果を惹き起こすものであったのである。
医療関係者は医療崩壊を口にした。その指摘の通り、医療は一時的にせよ崩壊したはずである。一時的だとしても医療は崩壊してはいけない。感染した場合の体制は整備されている言っても形だけのことであり、連絡できない、電話しても繋がらない、感染しても入院できない、という野放しな状態が続いた。マスコミは医療の逼迫を報じるだけで、解決されたという報道はしない。
ワクチンは本当に有効なものであったのであろうか。ワクチンが数カ月でできるはずはない、という専門家の話がある。しかしその数カ月で、ファイザー社のワクチンが供給された。それも世界各国に対して供給された。それほど膨大な量を供給できるものなのであろうか。
ワクチンに関して言えば日本の製薬技術が問われることになった。日本の技術をもってすればワクチンは簡単に作れたのではないか。そうはならなかった。
2021年に、日本における超過死亡者が激増したという報告がある。限りなく、ワクチンが原因ではないか、と疑われている。
根拠もなく批判するものではないという意見はよく耳にするが、我々には確認する資料を得ることもできず知識もない。このような報告を気にしながら、ひたすら憶病に物事を判断するしかない。
大きな社会問題であり、政治問題でもあったのであろう。あの冷徹な菅総理大臣の目が虚ろになったほどである。
コロナが大騒ぎになったことにどんな意味を見出すべきであろうか。大騒ぎになったのは未知の、ひょっとしたら殺人ウィルスでもあるかもしれない感染症の危険が迫ったからである。状況によっては社会はパニックと化す。
政府の対応は、医療対策、隔離対策、人心安定対策(不安)ということになる。
医療はどうだったのであろうか。医療のことは専門家に任せるとしかやりようがない、といったところであった。医療関係者は政府の対応に対して一応に批判的である。政府として指導性を発揮することが出来なかったということであろうか。傍から見ると何もしなかった、何もできなかった、ということではないかと思う。
隔離は身近な例で言えば居酒屋などの営業制限という方法で行われた。中国などの国であれば営業補償などあり得ないのであろうが、日本は民主主義のせいか営業補償をした。
いろいろ問題の多い補償であったが、国民の不満はある程度分散できたのであろう。
これから政府の回収が行われる。不当に補償を受けた者の分まで一般市民が負担させられることになる。
確かに国民に行動制限を求めるなら営業補償は必要であろう。間違った政策とは言わないが、結局支払いは国民である。国が補償するなどと言うが、税金は自分たち政治家のものだ、という意識があるからそのような発言になる。
不安を解消するのは難しい。不安とは漠然とした脅威である。対象がはっきりした脅威は不安とは言わず危険と言う。暗闇を怖がるように、脅威の対象が漠然としているから不安なのである。
政府はワクチンの安全性、効果についてどこまで検証したのだろうか。コロナに対してワクチンは効果があるかもしれないが、ワクチンによってコロナに対する国民の不安を除こうとしたのではないか。それが目的だったのではないか。前後の流れからしてそう思わざるを得ない。
大規模な接種会場を設けて、自衛隊まで出動した。国を挙げての一大イベントである。国民はこんなイベントに参加するのは初めてである。人々は競って入場券(接種券)を入手し、イベント会場の行列に並んだ。
国民のコロナに対する不安に、とにかくなんでもいいからワクチンを打ち続けることが得策だ、と政府は考えたのではないだろうか。国民はコロナに対する不安をワクチンによって安心に変えた。
でもその安心は、ワクチンの効果は誰にも分からない、という安心である。感染すれば、基礎疾患があったのではないか、と本人のせいになる。それでも人々はワクチンを信用するよりしょうがなかった。しかしワクチンの効果はどうであれ、政府にって接種のイベントは効果があった。
結局、このコロナで何人の人が死に、それは他の感染症に比較して多いのか少ないのか。大したことはなかったのか。世界的な感染症に対しては対処しようがないのか。国の予算では医療体制の充実は無理なのか。何十年か何百年かに発生する感染症などに構っていられないのか。という問題であったような気がする。
政府は、つい最近まで25万人にもなる感染者が出ているのに、コロナの感染症法上の位置づけを季節インフルエンザと同じ5類にすることを決めた。大したことはないと判断したことになる。大騒ぎした割にはその甲斐がない。一番損したのは菅さんということになる。(了)
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