「ケイン号の叛乱」という映画を今日テレビで見る。
高校生の頃、「戦艦デファイアント号の反乱」とか、「戦艦バウンティ号の叛乱」という映画を観て以来、海洋映画というのか、帆船が登場する映画が好きである。帆船が航行する姿は美しい。西部劇はほこりぽくっていけない。
しかしこの映画は帆船ではなく、太平洋戦争時下のアメリカ海軍の老朽化した駆逐艦の話であった。
出演者にはハンフリー・ボガードの名がある。彼が出演する映画であるならカサブランカのように痛快な映画かと思ったが、そうではなかった。
反乱と言っても、大航海時代の帆船の乗組員が指揮官に反抗するというような話ではなく、駆逐艦艦長の精神的疾患を指摘する副官の指揮権代行の是非である。
精神的疾患を問われた艦長はハンフリー・ボガードであった。
艦長の精神的疾患を理由に指揮権を代行した副官が、反乱罪として軍法会議に付されることになる。映画の後半はこの軍法会議のシーンである。
検察官と弁護人の、なかなか聞きごたえのある論理的なやり取りが展開されるが、どうこの軍法会議を映画として終えるのか、ということに興味がある。
結果は、指揮権をはく奪された艦長が軍法会議において、感情のまま話すことによって自らの非を晒してしまうのである。
判事も検察官も何も問うことはない。唖然とするだけである。軍法会議の場は艦長の言葉の異状を映し出すだけで、判決を言い渡すこともなく終わる。
結論を述べることもなく、それで結論が出たことを観客に伝える話が他にもあった。「12人の怒れる男」
最後まで少年の有罪を言い続けてきた男が、「ノンギルティ」と泣きながら口にしたのは、息子の写真が財布から落ちた時のことであった。
息子との確執から、子供というものは親の気持ちも知らず勝手なことをするものだという思い込みが、被告の少年を許せなかった原因であった。
このシーンにおいて他の陪審員は一言もセリフがない。最後まで自分の思い込みのまま有罪を主張した男に対して責める言葉はない。
机に泣き伏す男に、この男を追及してきた他の陪審員が、静かに上着をかけるシーンがあるだけである。
自らの論理が破綻したならばそれを認めるべきである。今の社会、破綻しても開き直りが当たり前になっている。
民主主義は自分に非があればそれを認めることであり、非を認めた人を他人は責めないことである。
「もはや何を言ってもしょうがない」という言葉は人に対する最低の評価である。
そう言われるような人が何事もなかったように活動している。その代表格はトランプ。日本の知事や市長も同じである。
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