今年2月に妻の叔母が亡くなった。101歳だった。10数年前から船橋市にある老人ホームに入居していた。
叔母の夫は35年ほど前に亡くなっている。子どもはなく、以後都営アパートに独り住まいであった。
親戚は法律上は何十人もいることになるが、現実は兄の子供である甥と姪2人の3人だけである。
高齢とともに日常生活に支障が生じていた。着物などの買取業者を部屋に入れることも多かったらしく、転居の時には持っていた多数の指輪や宝石類が無くなっていた。
兄である義父の遺言もあり、叔母のこれからを心配して義兄が入居させることにした。
叔母はほとんど貯金を持っていなかった。夫の遺族年金だけで生活していたらしい。
義兄が、あまり低レベルの老人ホームでは叔母がかわいそう、と比較的費用の高いホームを入居先に決めた。
その結果、年金では足りず、甥姪の3人で不足分を負担し合うことになった。その金額は一人当たり年10数万円となった。
姪の夫も、そしてもう一人の姪の夫である私も、負担金に何の言葉を付けることなく支払い続けてきた。
しかし負担金の支払いになんのこだわりも持たなかった、ということはない。
叔母は浪費壁があり、頭に二文字を付けるような気前のよさもあった。近所の人たちに、持って行って、と言ってはいろいろなものをあげていた。
ボケもあり、甥や姪が入居費を負担していることについての認識は全くない。
好き勝手に生きて来て、無駄遣いをして、老後のための準備を何もしていない。
こんな遠い親戚のために金を払うことは不愉快極まりない。
自分の老後がこうなることは分かっているのだから、もう少し貯蓄なり考えて生きてこなかったのか、顔を見るたび腹が立つ。
人生なるようになる。人生は自然の成り行きに任せた方がうまくいくもので人為でどうこうなるものではない、という意味であるが、また、人生なるようにしかならない、という諦めとしての意味もある。
叔母は、なるようになった人生であった。何の考えも持たず、老いを考えることもなく、他人に迷惑をかけて死んでいった。
なるようになる人生がみっともないことになったのは、平均寿命が延びたことが原因と思われる。
人間の寿命が50年60年から80年90年となれば、なるようになってしまってからの人生は30年もある。
その期間は病気などのアクシデントを伴うことが普通だ。体力も思考力も弱っている体で30年生きていかなければならない。
肝心の社会保障制度が、なるようになってしまった。
何十年も前から破綻が指摘されているのに無策であった。(了)
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