人は命に関わる病気になったり、愛する家族を失ったりすると「なぜこの私が」という感情を持つ。
このような「なぜこの私が」の疑問に答えることは、医者でも学校の先生でも誰にもできることではない。
山上徹也被告の裁判が10月28日、奈良地裁で初公判となる。
事件は2022年7月のこと。政治家を被害者とする殺人事件とはいえ、初公判までずいぶん長い時間を要したことになる。
母親が旧統一教会に入信し、多額の献金を行ったことで家庭が崩壊し、自身の人生が破綻した原因は教団にあると考え、教団に強い憎しみを抱いていた。
安倍元総理が旧統一教会の関連団体に寄せたビデオメッセージを見て、安倍氏と旧統一教会は深い関係にあると考え殺害を決意した。
詳細な事実はこれからの裁判で明らかになることだが、総理大臣経験者が旧統一教会と関係があったことで殺害された。
一暴漢による無差別殺人事件ではない。旧統一教会に関係があるとして安倍元総理は殺害されたのであるが、このことがほとんど検証されていない。裁判では殺害動機となるはずだが、あまり突っ込んだ論証はされないのではないだろうか。
裁判に関心があるわけではない。母親が旧統一教会に入信することと多額の献金をしたことに関心がある。
山上被告の母親が旧統一教会に入信したきっかけは、「夫の自殺」と山上被告の兄にあたる「長男の難病」だったという。
 母親は家族の中で立て続けに起こった不幸に苦しんでいた。
 長男の病気は失明とか、頭の開頭手術とか、苛酷なものであったらしい。
そんなとき、近づいてきたのが旧統一教会だったという。母親はその教えを聞いて、なぜ自分の身に悲劇が起こるのか、その理由がはっきり判ったという。
判るはずがないことがはっきり判ったということが悲劇の始まりである。
母親は、自分の不幸は神様から堕落した自分自身に原因があると聞いて納得する。
「神様から堕落したから不幸になる」。そんなバカなと思うが、「なぜこの私が」と疑問を持つ人の心にはスーッと入るものらしい。科学的な説明である必要はない。
創価学会では「前世の業という」。前世の業が深いから現世の不幸がある。それを断ち切るために信心がある。
なぜ自分は不幸なのか。不幸は自分が招いたものではないから自分から答えが出るはずはない。しかし「神様から堕落」「前世の業」という確かめもできないことで不幸の原因を指摘されると人は納得してしまう。
母親は事件の後、旧統一教会への信仰心がより強くなったと話している。息子の殺人事件も自分の不幸と捉え、献金が足りなかったと考えているのだろうか。
 献金のため長男の治療も十分できなかったらしい。
 母親の信仰は「なぜこの私が」ということに対する答えが欲しかっただけなのか。家族を守るという気持ちはなかったのだろうか。

  
  
  
  

コメント