どこでどう間違ったのか

つぶやき

 何年も前のことであるが、新聞で読んだのかテレビで見たのかもはっきり覚えていないのだが、ある検察官が捜査検事の時、担当したある事件について回想を述べたことがあった。

 その内容に強い印象を受けた。それは自分が死刑を妥当として取り調べを終え、裁判で死刑が確定し、死刑が執行されたことへのいわば後悔であったからである。

 検察官の職務において、よっぽどのことがなければこのような後悔はない。あったとしても検察官としての職業による心情を吐露すべきではない。

 その事件は昭和41年5月に国分寺市で、犯人長谷川武が犯した強盗殺人事件である。被害者は当時40歳の家庭の主婦で、押し入った犯人にメッタ刺しにされ死亡した。残虐な犯行だったらしい。

 犯人長谷川武には同じ時期に犯罪歴があり、残していった指紋からすぐに逮捕された。犯行時22歳。強盗殺人事件を犯すような青年には見えなかったという。

 取り調べには素直に応じ、さしたる弁明もせず、すべて自白した。
 昭和43年4月に、最高裁は長谷川の上告を棄却して死刑が確定し、昭和46年11月、事件から5年後に死刑が執行された。

 第1審の判決後、拘置所の住所から発送された手紙が捜査検事のもとに届くようになる。長谷川武からの手紙である。

 「警察での厳しい取り調べの中でたった一人、高圧的でない態度で接してくれた優しい目をした検事さん」と彼の眼には映っていたようだ。
 そこには自分の話を聞いてくれた検事に対する感謝の思いが書かれていたという。

 長谷川の手紙は死刑執行の当日まで続く。事件を起こすまでの貧しかった半生、仕事のこと、母親のこと、いろいろな思いが書かれていたらしい。
 いつもとは違う薄い手紙が届いたとき、不安にかられた検事は拘置所に連絡を入れたが、その日午前中に死刑が執行されたことを知る。

 長谷川は自分の罪に対して当初、「自分が死ねばいいのだ」と考えていたらしいが、「改心した上で処刑されていくことが理想」と考えるようになったという。

 「もし生まれ変わることができたら、立派な職に就こうとは思わない。もう一度自分が歩んできた道をやってみたい。自分が歩んできた道をもう一度踏み返し、どこでどう間違ったのか、納得いく所まで自分自身を見極めたいのです」という長谷川の心情が、講談社BOOK倶楽部という記事に書いてあった。

 この検事は、長谷川からの手紙に激しく心を揺さぶられ、恩赦へと動き出そうとしたほどだったが、上司に説得され思いとどまったという。

 私がこの事件について関心を持ったのは、長谷川からの手紙の中に、殺害したのは1人なのにどうして自分は死刑にならなければはいけないのか、という疑問を検事に尋ねたことである。

 私がこのことで覚えているのはこの1点である。私が見たか読んだかした内容には、それに対して答えなかった検事の後悔のようなものが描かれていた。
 検事の後悔。尋常なことではない。

 この検事のことがずっと気になっていた。詳しく知りたいと思ったが検事の名前も事件名も分からないので調べようがない。

 試しにネットで「死刑を後悔した検事」として検索してみるとこの事件のことが大きく掲載されていた。ネットというのはすごいものである。

 堀川恵子と言う人が「裁かれた命―死刑囚から届いた手紙―」という題で本を出版していることも知った。
 その本を読んでこのブログを書いているわけではない。長谷川の生い立ちや弁護士とのやり取りには、涙なしでは読めない感動があると読者の感想が寄せられていた。

 問題はなぜ死刑の求刑がされ、死刑判決がされたかということである。3人殺せば死刑。2人殺せば無期刑か死刑と言われるが、1人殺して死刑になるということはほとんどなかったらしい。

 確かに長谷川には余罪がある。強盗殺人は刑が重い。担当検事は何を確認して死刑を求刑したのか、はっきりとは述べていない。というより何も述べていない。強盗殺人だから許せない、死刑だ、と最初から決めていたのかもしれない。

 裁判官は長谷川が書いていたという日記によって、死刑の心証を形成したと言われている。犯罪の日記を書くこと自体に「悪質で異常。犯罪を面白がり人命を軽視している」と認識したらしい。

 しかしこの日記は、長谷川が自分の心の内をぶつけることのできる唯一の物であったかもしれない、という見方をする人もいる。
 裁判官はこういう心証は形成しない。司法試験は文学の才能があると受からないとされている。

 現在であれば長谷川は死刑にはならなかったと言われている。長谷川の問いになぜこの検事は答えなかったのであろうか。

 長谷川は死刑を覚悟したが、やはり生への執着はあったのであろう。1人殺しただけでは死刑にならない。長谷川は信じていたのではないか。

 検事はなぜ死刑を求刑したのか。後悔しているらしい。殺人事件は何件も担当したと思うが、この事件をいつまでも覚えているということはそういうことであろう。

 考えてみれば3人なら死刑、1人なら無期または懲役というのもおかしな話である。1人では足りないというのは、それでは目方が足りないと言うのと同じことではないか。
 後悔があるというのは死刑が相当ではなかったということである。

 死刑の問題は、刑の本質を応報ととらえる限り簡単に廃止できるものではない。
 しかし死んでしまった人は戻らない。被害者も加害者も、である。
 加害者の半生に感動があったとしても、被害者の苦しみは癒えるものではない。

 この検事は最高検察庁の検事を最後に退官し、その後いろいろな大学で多分刑法だと思うが教育者になっている。若い学生を見れば長谷川武のことを思うのではないだろうか。この人も重たい物を背負ってしまったようだ。

 どこでどう間違ったかは長谷川武だけのことではない。人はみな、どこでどう間違ったか、と思いながら生きている。ただ取り返しのつかない間違いにはつらいものがある。(了)

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