秋野暢子さんの一昨日付けのブログを拝見した。「放射線治療で消滅したがんがまた2つ顔を出しましたけど内視鏡手術で退治できました」、と書いている。「でも油断はできません」、とブログを終えている。
先週の月曜日喉頭がんの定期検診があった。予約票は耳鼻咽喉科から頭頚部腫瘍外来という名称に変わったが検診場所は以前と同じである。
月曜日の医師名簿を見ると、頭頚部腫瘍を専門とする教授の名前が書いてある。手術後2年目の経過観察である。より専門的な検診がされるのであろう、きっとこの教授がこれからの担当医だろう、と思った。
しかしかなり待たされたが医師は若い研修医だった。少し拍子抜けである。しかも特別な検診がされることもない。以前と全く同じである。
人柄の良さそうな研修医であった。なにか気になることがあったら何でも聞いてください、と言う。
そこで私はまた以前の担当医に言ったように「再発は覚悟しています」と言った。
すると研修医は私のデータを見ながら、「血液やリンパには今のところがんはないようですね」と言う。
「ムムッ、お主なかなかできるな」、という感じである。
「再発なんて滅多にありませんよ」、という言葉を期待したが今回はそうはいかなかった。
何度もこのブログに書いていることだが、今のところ私のがんは差し迫って命に危険を及ぼすものではないようだ。しかし秋野さんの言うように油断はできない。
そういえば秋野さんのブログに「油断はできない」という言葉を見たのは初めてではないだろうか。突然、交通事故のようながん宣告を受け、長い治療生活を経ての気持ちかもしれない。
北島三郎さんはがんではないが私と同じ病気をしている。頚椎症性脊髄症である。手術をした話は新聞などで見たが現在は車椅子のようである。
どうもこの病気は、歩きにくいとこまで病状が進んでしまうと手術をしても治らないようである。歩行に限ったことではない。手のしびれも治らない。神経の障害は蘇生しないからである。病状の進行を止めることしかできないようである。
私も手術をしても歩行困難は改善しないが、しかし尿意とか便意とかには支障はない。間に合ったと思わなければいけないのだろう。
一昨日は義兄の一周忌であった。膀胱がんを発症したが完治したということだが、死因は血液のがんということらしい。転移していたということなのだろうか。死因は内出血である。輸血の限度を超えていたらしい。痛みや苦しみはあまりなかったようだ。
死があるから生に意味がある。いろいろ名言があるが、要は生きているか死んでいるかしかない。
中学時代の同級生と連絡が取れない。女性である。共通の友人に電話したが、「なにかあったのか分からないけど急に連絡がとれなくなったのよ」と言う。「でも生きているとか死んでしまったとかということではないと思う」と言う。
最近、「まさか死んでしまったということはないだろうな」と思うことが多い。他人のことを思うどころではなかった。思われているかもしれない。
社会生活を離れて1年半近くなる。
胃を全部取ったって生きている。右か左かいずれの肺をとっても生きている。腎臓は2つあるから一つとっても大丈夫。肝臓も半分くらい親に提供しても死ぬわけではない。足の一本くらい無くなって生きていける。
人間は結構頑丈にできている。生と死を分けるものはなんなのであろうか。(了)
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