長いこと近所づきあいをしていたご夫婦の旦那さんがこの1月に亡くなり、その後何かと奥さんには話しかけ、おいしいものが手に入ればわずかなものであっても届けるようにしている。
ご主人を失った悲しみの中にあっても、少しくらい楽しいことがあってもいいではないか、という気持ちで夫婦ともども接している。
先日、気にかけていたことをやろうと、四谷のすし屋さんに出かけた。
いつも私のために蕎麦を打ってくれる女性にお礼するために、茶巾寿司を買いに行ったのである。
この女性は妻の絵画教室の仲間であり、今年80歳になる。妻とは20年近い付き合いということになる。
去年の暮か、今年の正月頃か忘れたが、絵の会で青山の方に出かけた帰り、妻がこの店を紹介したらしい。
何人もの人がそのおいしさにビックリしたというが、とりわけこの女性が喜んだらしい。
この店が私に関係ある訳ではないが、この店は二十歳のころから知っている、私も妻も好きな店である。
その寿司を格別な言葉で褒めてくれた。他人事であるが、好きな店をそう褒められたら我が身も同然、こうしちゃあいられねえ、というのが下町っ子である。
高速をすっ飛ばし、寿司を買ってトンボ帰りでその女性の家に向かった。
予め妻が在宅を確かめていたので届けることができた。
ことのほか喜んでくれて、いろいろ茶菓子を用意してくれていたらしいが、私は人の家に上がるのが苦手。お土産をいただいて帰った。
同じ絵画教室の人がほんの少し前に乳がんの手術をされた。
この方は79歳になる。40代の頃に乳がんの手術をしたということだが、再発したということらしい。
元気になってほしいと、この方にも茶巾寿司を届けた。
「また食べたいと思っていたが、四谷までなかなか行けなくて」と、とても喜んでくれた。
もちろん近所の奥さんにも妻が届けた。名店の茶巾寿司を、おいしいお茶と一緒に楽しんでくれるだろうと思った。
昨日その奥さんが我が家に花を届けてくれた。
男の子の日が近いので、庭に咲いた三寸アヤメ持ってきましたという。
花は2つ咲いていたが、もう一つつぼみがあるからすぐに咲くでしょう、という話をした。
しかし3日前に届けた寿司のお礼の言葉はなかった。言い忘れたという感じではなかった。
そういえばこの人が、ありがとう、と言った姿、言葉が思い浮かばない。
以前ご主人と何度か我が家で会食したことがあるが、ごちそうさまでした、ありがとうございました、と挨拶する姿が私の記憶にない。
亡くなられたご主人とは13歳違いで、今年67歳か68歳になる人である。
変な人ではない。しかし着る物とか生活にこだわる人ではある。
着るものはすべて無地である。衣装に全くお金をかけない。
しかし食器や道具にはかなり凝る。部屋の中はまさに塵一つ落ちていない。
妻が寿司を渡したとき、「うちの主人からです」と伝えたという。
花を持ってきてくれた日、妻は留守で私が玄関先に出ることになった。
私が出たなら寿司のお礼があって当然と思う。しかし全くその気配はない。
庭に咲いた花がちょうど季節だから持ってきました、というだけである。
難しい対応を迫られたことになった。なにをしてあげてもお礼を言わない人とこれからもつき合う必要があるのだろうか。
お礼を言わない人にはそれなりの生き方があるのだろうから、人にかけた情けは水に流せという如く、これからも今まで通りつき合うべきだ。どっちをとるか、なんとも難しい。
人にお礼を言うというのも一つの習慣なのだろうか。世代によっても違うのであろうか。単なる礼儀知らずという男や女を何人も知っているが、そんな連中のことはどうでもいい。
近所の奥さんにとってのお礼は、咲いたアヤメを届けることなのかもしれない。
しかし私は80歳の妻の友達の、ありがとう、の一言がうれしい。
先日は着ていたシャツまで褒められて、一段と派手なシャツを3枚も買ってしまった。昔の人は人を楽しませる。お世辞でもうれしいことである。(了)
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