おいしくないと言ったら面白い

つぶやき

 気がついてみると、ずいぶん前からテレビでは、「おいしい」、「うめえ」、「めちゃうま」、「最高」などと、わけの分からない安上がりのタレントたちが叫ぶ食べ物番組が多い。

 ちゃんとした料理番組というのではなく、タレントたちがいろんな場所に行って名物といわれる料理を食べ、決まったように感極まったような作り顔をして、「めっちゃうまい」などと言うのである。

 誰か一人くらいは「おいしくない」と言ってもよさそうなものである。
 食べ物を口に入れ、まだ咀嚼もしていないのに「おいしい」では、見る方としては興ざめである。

 いつも書くように、こういう番組を見たくて見たわけではない。スイッチをつけるとこういう番組だらけなのである。

 この食べ物番組に怒っているのは私だけではないようだ。
 物を食べ、「おいしい」と叫ぶタレントたちを、「食の衰退」であると言うエライ先生がいた。

 「食べることは生理的欲求で、人前で見せつけるものではない。かつては食への執着をいやしいと誰もが感じていたことである」と言う。

 エライ先生だけに言うことが違う。「和食から失われつつある“恥じらい”と“節度”」。「食に恥じらいを持つ人は、たたずまいも清らかに見える」とも言っている。

 しかしタレントたちも、そこまで言われてしまっては気の毒な気もする。恥らいやたたずまいをもってテレビに出るお笑い芸人というものはいないと思うからである。

 では、この人にとって、食とはなんだったのだろうか。北大路魯山人や名店「吉兆」の湯木貞一の食ということを言っているようなのである。
 かなりご年配で、和食とか茶道などに詳しい人のようである。

 食はさまざまである。1個のにぎり飯から会席料理まである。何を食べるかではなく、何か食べられるか、ということもある。
 食の研究者となれば当然魯山人とか吉兆ということになるのかもしれない。

 しかし外国人が日本の食に感嘆したとよく言われるが、感嘆したのはユネスコ無形文化遺産になった和食文化ではなく、立ち食いそば屋でのカツ丼であったというような話は説得力がある。

 日本の食文化なるものを、魯山人や吉兆を基準とするなら衰退するのは当然である。
 しかし食とは生きることである。誰もが高級料理は無理としても、食べることにこだわりを持っているはずである。

 タレントたちの取ってつけたような「めちゃうま」は見たくも聴きたくもないが、食に対していやしくないのが唯一の救いである。彼らは食べることに執着していない。エライ先生はいやしいと言うがそんなことはない。

 食に対していやしいのは性格から来ていることだから、我慢することができないらしい。
 いやしい人を2人見たことがあるが、これほど見苦しい人間の姿というものはない。
 いやしいという漢字は、卑しい、賤しい、とある。なるほどと思う。

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