いまさら生きる意味でもないが

つぶやき

 「ブラームス晩年の傑作でありその美しさは老いの寂寥感と諦念が影を落としている」
 ブラームスのクラリネット五重奏曲に対する定番のような解説文である。

 諦観と諦念は同じ意味で「諦めるという意味はなく、物事の本質、真実を見極めることである」との記述がある。本来前向きな言葉である、と説明している。
 意外なことであったが参考になった。

 諦観の意味を考え直さなければならないとすると、クラリネット五重奏曲の聞き方も変わってしまうことになる。

 最近〝ひろゆき〟という名前をよく目にする。はじめはそれが人名であることも知らなかった。
 
 「生きる意味は存在しないと考えています。虫や細菌に生きる意味がないのと一緒です。死ぬまでにできるだけ楽しく暮らせればいいな、ということだけです」というような発言をしているらしい。

 こんなことも言っている。「世の中、努力信仰で蔓延している。それを企業のトップが平気で口にする。ムダな努力は、不幸な人を増やしかねないのであまりよくない」

 過去の視点やしがらみを無視すればいろんな考え方が出でくる。
 それが斬新で正しい主張になるかのように見えるが、そんなことはない。底の浅い思い付き、単なる実感を口にしただけのことであることが多い。

 高齢者は集団自決を、という若い経済学者も、ひろゆきなる人とさほど変わらない。
 「格差を作って富める者に税金をたくさん払わして、貧しき者を助ければいい」。
 半年もすれば舞台から消える役者と同じである。

 難しいことは分からないが、人は対象がなければなんの精神作用を起こさないものである。人間は自己の精神によって、生きる楽しみも喜びも得られるものと考えたときもあったが、どうやらそんなことはない。人は対象が無ければ楽しむことも喜ぶこともできない。人間はもともと空っぽなのである。

 人生には思いもかけないような楽しさは滅多にない。日常や、ちょっとした非日常に心をときめかすような安直さが必要なようだ。

 この24日、79歳で死んだ姉の3回目の命日になる。娘時代、貧乏の中でなんの楽しみもない生活を送った人である。

 幸いに夫の仕事が順調に行き、40歳過ぎてから娘時代の貧乏を取り返すように贅沢に暮らしたようだ。

 知り合いを何人も引き連れて旅行に行き、買い物は日本橋高島屋外商部。食事は銀座の名店ばかり。人に金を払わせたことはなかった。

 糖尿病になるのは当然であった。傍から注意したが、結局あまり気にしなかったようだ。「好きなようにさせてよ」という言葉をなん度も聞いた。夫以外の男性もいたようだった。

 膀胱がんを患い全摘したらしい。3年前に、いわゆる末期がんの施設に入所した。体は小さくなり、右足がなかった。

 「大丈夫だよ、きっと治るよ」と私は根拠もなく励ましたが、「もういいんだよ」と姉は、ハッ、ハッ、ハッと笑って元気に答えた。

 それから2週間たったころ甥から亡くなったとの連絡を受けた。甥は「母は好きなことをすべてやって死んでいきました」と私に言った。

 姉をよく思い出す。思慮のない言葉や言動の多い人であったが、誰にも迷惑をかけず、認知症になった母だけでなく叔母まで面倒を看た。責任感の強い人であった。

 好きなように生きて人生を楽しんで、弟や子供たちが心配したとおりに死んでいった。でも、いい人生を送った人だと思う。

 生きる意味を考えても、生きる意味を教えてくれる本を読んでも、多分すぐ忘れてしまうだろう。
 
 面白く、楽しく生きることが人生の意味であるようだ。ひろゆきさんの言うとおりである。
 ひろゆきさんなる程度で、人生の意味を言い当てることができる。人生とは残念ながらそんな程度である。

 私の場合、楽しい人生にするには、心の部品を少し変えなければならない。人生否定の時間が長すぎて、楽観主義とするには少々手間がかかる。(了)

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