石原慎太郎氏は今から3年前の2月、すい臓がんで亡くなっている。89歳だったそうである。
亡くなる少し前、自宅玄関から顔だけ出して記者の問いにわずかに答える表情を見たが、さすがにあの若かりし頃の精悍さはなかった。
不世出の大スター石原裕次郎の実兄であり芥川賞作家。従来の政治家にはない若々しいスタイルをもって登場。人々は拍手喝采で石原氏を迎えた。
しかし石原慎太郎という人、政治家としてどういう人であったのか、考えてみる必要のあると思うのである。
改めて石原氏を思い出してみると、結局石原氏はどういう政治家だったのか、日本や東京都のために何をやった人なのか、ハッキリとしたものが浮かんでこないのである。
「それはあんたの勉強不足」と言われるかもしれないが、それにしても「これぞ石原」というものが見当たらない。新設した銀行は倒産したようなものではないか。
あるものと言えば、あの挑発的な政治姿勢と差別発言だけである。どう見ても良識ある人間とは思えない。
良識は個人のことだからいいとして、何か政治的ビジョンを持っていた人なのであろうか。どうもその辺に石原氏に対する疑問が生じるのである。
そんな疑問を持つような人がどうして長らく国政に関与し、四期もの間、都知事の椅子にいられたのか。
死んだ人に鞭を打つことになるが、私の鞭などたかが知れている。その非礼よりも、石原氏の政治家としての姿勢を考えることが有益である。
石原氏は国会議員として26年10ヵ月。東京都知事として13年5ヵ月。併せて40年と3ヵ月、政治と行政の世界に身を置いたことになる。
石原氏の政治経歴には特筆すべきことがある。
石原氏は1968年に36歳で参議院議員に初当選し、1972年衆議院に鞍替えするが、1995年に「日本の政治に失望した」として政界を引退してしまうのである。
その4年後の1999年に、今度は東京都知事に当選し、一国会議員から巨大な行政の長として以後四期まで在籍する。
しかしまた四期途中の2012年に都知事を辞任して、日本維新の会から衆議員に復帰する。
この経歴は、石原氏の政治姿勢を理解するのに無視できない事実である。
石原氏の政治姿勢については、この稿では書ききれない。それは後回しにして、石原氏の差別的発言をまとめることにした。
「女性が生殖能力を失ったとき存在している意味があるのかね」
「ああいう人ってのは、人格があるのかね」(重度度障害者に対して)
「IQが低い人たちでしょう」(水俣病患者の抗議文に対して)
「補償金目当ての、ニセ患者がいる} (水俣病患者に対して)
「同性愛者はどこか足りない感じがする。遺伝のせいだろう。気の毒な存在」
「これは天罰だと思う」(東日本大震災について)
「この間の、障害者を19人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ」(相模原障害者施設殺傷事件について)
「日本人には携帯電話を使って売春する子供が、小学生でもざらにいる。300万円、1000万円も貯めて、それを駅のコインロッカーに隠している。こんな風俗は他の国にはまずない」
「大年増の厚化粧がいるんだな、これが。これはね。困ったもんでね」(小池百合子氏を評して)
後回しにした政治信条に関する発言は、靖国神社のことだけして一つだけ書いておくことにした。
「靖国神社に参拝しない者は日本人ではない」
石原氏の発言。もちろん私自身が直接聞いたわけではない。いずれも新聞雑誌等に掲載されたものである。
言葉の切り取りということもあるかもしれない。それに石原氏は、他人の考えや発言を引用して発言する場合が多い。「私が言っているのではないが、こういう考えもある」という論調が多い。
しかしそこで語られるのは、一人の典型的な戦前を背負ったオッサンの言葉なのである。
国会議員から都知事に。そこに石原慎太郎氏の秘密があるのかもしれない。次回で考えてみたい。
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