1960年代の初め頃、器という字を表題に付した小説が2つ発表された。ひとつは高橋和巳の「悲の器」もうひとつは松本清張の「砂の器」
その頃私は中学生で、新刊本を買って読むようなことはなかったから、20歳を過ぎて、誰からか、なにかの影響で読んだのだと思う。
高橋和巳氏はもともと作家だったのか知らないが、とにかく当時、彼を読まなければ時代遅れ、と言ってもおかしくないほど、評価の高い人であった。
「悲の器」は作家としてのデビュー作ということだが、内容は男女間の三角関係というようなことで、ほとんど詳細は覚えていない。
確か国立大学の刑法の学者の話ではなかったかと思う。私はこの小説で確信犯という言葉と意味を覚えた。
高橋氏の訃報は早かった。31歳で文壇デビューしてから8年後の39歳の時、結腸癌で亡くなられている。
先日「砂の器」が、「日本映画で最も泣ける作品」として、この小説の映画版が紹介されていた。
小説は1960年から約1年間新聞に連載されたものであるが、1974年に映画化された。
隠さなければならない過去のため罪を犯してしまう。松本清張さんのいつものパターンである。
清張さんは推理小説の形を利用して、社会問題を小説に書いてきた人である。
その映画化に際しては、重点を社会問題に置くか、娯楽に置くか、製作者たちが頭を痛めるところである。
「点と線」「ゼロの焦点」「波の塔」などの作品の映画化は、小説における社会性の比重が高いことから原作に忠実に作らざるを得なかったと思われる。
「砂の器」も、殺人事件の動機はハンセン氏病という重大な社会問題であるから、その部分が強調されても原作に反することはもちろんない。
しかし映画「砂の器」は、原作の社会問題を強調することよりも、ライ病を病んだ父と子の、切なく悲しい放浪の旅として、人の情緒に訴える物語としたようだ。
見終われば、移り行く季節の中をさまよう父と子のあてのない旅が、ラフマニノフにも似たテーマ音楽とともに美しい感動となって残った。
映画好きな義兄とこの映画について話し合ったことがある。義兄はこの映画をあまり評価していないようであった。
紙吹雪の女。犯人を語る刑事の涙。そんな人知らねえと絶叫する千代吉。
あり得ない。笑ってしまう。感動のお仕着せである。泣くような映画ではない、と言うのである。
今年の夏は義兄の3回忌となる。義兄は「砂の器」を評価しなかったが、寅さんは好きだったようだ。寅さんについても語り合ったことがある。
「あんな粗暴な人間を愛すべき人間として描くことは間違っている」、という私の考えに対して、「ああいう人がいると座が和むではないですか」との義兄の返答が記憶にある。
映画「砂の器」を認めなかった人が寅さんを認めている。両方共に嘘があるが、義兄は寅さんの嘘は認めたことになる。どこが違うのだろうか。
義兄は感動の押し売りのような映画は嫌いだったようだ。意外なことに暴力映画のようなものを認めていた。なにか真実を感じているようだった。(了)
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