私はビートルズの世代ということになるが、ラジオから流れてくる曲を聴いたことがあるだけで、ほとんど聞いたことがない。
人にそんなことを言うと、「あのビートルズを知らないなんて」と天地がひっくり返るように驚かれる。
変人とは言わないが、それに近い軽蔑の視線を向けられる。そうかな、ビートルズはそんなにいいかな。
井上道義さんが今年一杯で引退されるそうだ。やりたいことは全部やってきたという。
井上さんの演奏は一度も聞いたことがない。ハンサムな指揮者という印象があるが、父親はアメリカ人ということだった。
77歳。私と同じ歳。引退してもいい歳かもしれない。
中咽喉がんを経験しているらしい。酒もタバコもやらなかったそうだ。
華やかな人生を送ってきた人には思い出がある。残りの人生、思い出で生きていくことができるだろう。
先日小澤征爾さんの追悼番組でブラームスの交響曲第1番を聞く。何度も聞いているカーネギーホールでの実況録音盤である。
この曲は中学生のころからどういうわけか演奏会で聞くことが多かった。いつも、どんなオケで聞いても大きく鳴ることがない。舞台の中だけで音楽が鳴っていて、客席まで音が届いてこない。
ベートーヴェンもそうだが、ドイツ音楽は華やかさよりも重厚さということになる。演奏効果などというものには関心がないようだ。
小澤さんの演奏はまさにエキサイティング。終楽章はミンシュのパリ管を思わせる。ブラームスはどう思うだろうか。もっと古臭く、地味に演ってほしいと思うのではないだろうか。
音楽が好きだと言っている割には演奏会にはあまり行ったことがない。自分でも呆れるほどである。
ウィーンフィルが来た、ベルリンフィルが来たと知っても聴きに行く気にならない。
高額なチケット代をケチるわけではない。ただ面倒なだけである。
唯一の楽しみを面倒だと思うのだから、私の楽しみというのもいい加減なものである。物事を面倒がると痴呆になるという。
最近のオーディオの変化に全くついていけない。CDしか聞かないからCDを買いに行くが、昔と違って店にCDが少ないのである。
以前は一つの曲に何人もの演奏者の異なるCDがおいてあったりしたが、今はそんなこともない。音楽はもはやネット配信で聞くことになっている。
何年か前、初めて入院したとき、息子が私にリクエストを尋ねる。
CDでも差し入れてくれるのかと思ったら、小さなハードディスクと言ったらいいのか、そんなものをもってきてくれた。
驚くことにその小さなディスクに10曲以上シンフォニーやコンチェルトが入っていた。
コンビニなど買い物の支払いもまだ現金でしている。去年アウトレットのレストランに入ろうとしたら「現金の客お断り」になっていた。金は持っているのにお腹をいっぱいにすることができない。
なにより現金であった。現金を見せなければ信用しない社会であったのに「現金の客お断り」とは信じられないことである。
老後いくらの貯蓄があれば安心か、とネットでは連日騒いでいるが、金はあってもスマホなどを使いこなせなければ今日の飯にもありつけない時代になってしまった。
「貨幣の役割」などと、子供の頃社会科で習ったことが思い浮かぶ。(了)、
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