松野官房長官が更迭のようである。逮捕が近いのかもしれない。
現職の閣僚が逮捕されてはダメージが大きい。そのための更迭なのだろうか。
しかしいい加減なことを言うが、パー券を売って派閥に金が入り、ノルマ達成の褒美としてキックバックとやらを受けたのだから、誰に迷惑をかけたわけでもない。政治資金規正法上の問題はあるのだろうが。
検察がいろいろ権威回復ために大掛かりな準備をしていると報じられている。ちょっと前に黒川高検検事の問題があった。
検察は正義である。決して誤りがあってはならない権力である。
特捜出身という弁護士がよくニヤニヤしながらテレビに出ている。私は出演すべきではないと思う。それよりも検事出身者は弁護士になってはならないと考えている。検事であったことの特権を悪用していると思うからである。
昔から特捜部長を務めた人が定年後弁護士になり、反社会的団体の顧問弁護士になることが多い。なぜなのかと思っていたが、ある特捜出身弁護士の話にこんなのがあった。「大会社などの顧問弁護士になるとお金のために頭を下げなければならないが、反社会団体の顧問弁護士になると、頭を下げられることはあっても頭を下げる必要がない。それがいいのだ」。この人も反社会団体の顧問弁護士になっていた。
一昨日、通所リハビリとの契約のため、若い担当者がケアマネージャーと共に来宅した。よく言えば手際のいい事務処理。よく言わなければ、特にお勧めはしません、とビジネスライク。この施設は大繁盛の施設なのである。
私の歩く姿を見て、「やってもやらなくてもあまり効果はないかもしれません、現状維持というところでしょうか」と言う。更に「首も腰も手術をされていて、それだけでも歩ければいいほうです。手術をしてもまったく歩けない人がたくさんいます」、と言う。
私の人生はいつも「いいほう」であった。しかし「いいほう」であって「いい」ではなかった。いいほうとは、悪くはないがいいとは言えないということである。
学校の成績も、子供の出来不出来も、生活も、病気も、老後も、みんな「いいほう」であった。自分の能力や学歴などからしたら「悪いほう」のはずだが、どういうわけか「いいほう」であった。
あまり悪いことがなかったから「いいほう」ということかも知れないが、そうでもない。事業の失敗、病気の発症など結構悪いこともあった。でもそれらがみんな「いいほう」と思えるところで終わっているということである。
出来たら「いいほう」」ではなく「いい」生活をしたい。しかし人生は「いいほう」と思える生活ができたなら、それでいいとしなければいい人生は送れないものであるらしい。
人生は、なってみなければ分からないことがたくさんある。
なってみなければ分からないことには、なってみたいことと、なってみたくないことがある。
高齢になると、なってみたいことにはさほど関心がない。なってみたくないことが気になる。
末期癌、脳梗塞、認知症、老々介護、おひとりさま、終末医療。
考えてみると恐ろしいことばかりである。
この歳になるといい老後でなくていいから、せめて最後まで「いいほう」でいたい。しかし認知症などにも「いいほう」というのがあるのだろうか。なってみなければ分からないことは、なってみなければ分からないが、なるべく「いいほう」であってほしい。 (了)
い い ほ う

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